ドサイドン@こだわりハチマキ

ここは ただの びぼうろく

【ポケマスEX】サカキはシルバーと対比の関係にあるのではないかという予想(駄文)

急な思いつきで書くので備忘録程度に短め 極めて読みにくいです

 

まずサカキについてだが、結論から言うと何かを隠しているキャラクターだと感じた。

 

自分の実力不足によりロケット団の下っ端に敗北しポケモンを奪われそうになっていたキリヤを実質的に助けたり、キリヤやシルバーを認める描写、またそもそも単なる悪役としては明らかに描かれていない事から、サカキ本人に何かしらの文脈があるかもしれないと感じた。

 

この時点で原作のサカキには無い新たな要素が追加されていると感じたが、その要素は他キャラ同様原作のキャラクター性を慮った上で出来たものと感じている(そもそもそれらは原作に出てこれなかった要素とも言えるし、自分が原作から感じ取れなかっただけでそもそも原作の段階で確定していると断定できるキャラクター性が反映されている可能性が大きくあるが、ここではその話は省略する)。

 

 

この段階でサカキのその「新要素」を想定するならば、少なくとも事実から考えるとサカキが本当に強く誠実なポケモントレーナーにリスペクトのあるというのが根本にあるキャラクター性である、という話に収まるのだが、その新しい要素がわざわざ追加された深い理由等についてはあまり考えられず、あまり要素のない原作サカキに、想定し得る要素を追加したに過ぎないと考えていた。

 

サカキがそのような人格であったという「追加要素」があったとして、原作からの逸脱になる事は無いだろうが、この大きな追加要素が普通に追加された事は若干不思議であった。

 

しかし既に違和感がある訳では無かった。多少珍しいが、全然不自然では無かったので気にせずにいた。

 

ただ、最近ふと考えると、サカキのその新要素は、シルバーが抱えていた文脈を示しているのでは無いかと考えるようになった。

 

シルバーが抱えていた文脈を、ある種裏付けるような役割を抱えていたのならば、サカキにわざわざ多少大きな新要素が追加されている事にも完全に納得が行く。何より原作要素という裏付けになるから(かも)だ。

 

 

シルバーの抱える文脈とは何なのかというと、「自分の行動が最強を目指す故のものじゃ無いという事になると、自分の過去の行いであるポケモン泥棒の悪質性について真正面から向き合う事になってしまう事を恐れている、というシルバーの心情」だと考えている。

 

このような心情を持っていると考えた理由はここでは割愛するが、強いていうならばこの部分をキリヤに突っ込まれるシーンがある(=重要な要素の一部という表れ?)のと、そもそも原作やポケマスEXのエピソードから察せられると考えた。

 

 

ここで一旦サカキについて考えるが、一時的にかなり話をずらす。

 

ポケモン原作でUSUMまで描かれている要素の一部について触れるが、それは「この世に絶対的に正しいものなど存在しないが、人は生きる為に何かしらの幻想を絶対に信じる」という事である。

 

話を戻すと、かなり飛躍した表現にはなるが、サカキは本人の性格や、あらゆる経験を経たり現実を見て回った事から、「世界は生存本能を満たす為の身勝手な感情の重ね合わせにすぎず、それを満足させる物こそが『求められている物』である」という現実を確認し、「優しさや絆といった物こそ強いという思想を否定する事」に拘った。

 

強さはそれの反対に当たる、あくまでも絶対的な強さを探求する先にある物というような思想を持ったと思われる。その思想もまた幻想なのだが、その幻想を信じるようになったのは、サカキが現実を重視するキャラクター性だから、以外にも理由があると思われる。

 

キリヤに拘ったり、敗北したキリヤを守ったり、闇堕ちしたキリヤに何かを見出したりしたサカキは、実はキリヤに自分の幼少期のような姿を重ねたのではないかと予想した。

 

言ってしまえば、キリヤのような何らかの大きな挫折をしてから、今のサカキのようになったという事である。

 

つまり、キリヤのように「正しき きずな」を追い求めたからこそ大きな挫折をしたのでは無いだろうか

 

そう仮定すると多くのシーンについて説明がつくと考えられる。

 

 

そこから持ち前の精神性等で持ち替えしたであろうが、シルバーの精神性とも照らし合わせると、「建前上は本当の強さを追い求める為に行動している、と自分にも言い聞かせるように行動しているが、実際には本当の絆を追い求めていた幼少期の自分が大きな挫折をした事から目を背ける為の心情・行動」では無いだろうが、という話である。

 

だからこそ純粋に絆を追い求める青年トレーナーに寄り添おうと思うのだろう。

 

シルバーとサカキは、善と悪のような構図だが、目を背けている物に関しては真逆だというよが面白さが出ているのだろう

 

あまりにも駆け出しのような記事だが、2023年までに記事を終わらせたかったのでここで終わり

 

 

 

 

 

ポケマスEXの悪の組織カロス編について、原作ORASやSM(USUM)も振り返りながら語る(アローラ編も短く)

このブログを更新するのも久しぶりですね。何やらtwitterが大変なことになったりなっていなかったりしているらしいが、そんなことはさておき今更になってカロス編について語りたくなったので書きます。
書く時間がなかった訳ではないが、なんか文章を書く気があまり沸いていなかったのでここまで今更感が出てしまった...

ちなみに今回は特に内容の予想に踏み込むので、猶更この文章に根拠が不十分な備忘録である事を了承願います。またそもそも文章に纏まりがほとんどないのでそこも了承願います。
1.原作XYの、原作全体としての立ち位置を考える
 
個人的にここの部分は簡潔にまとめて終わりたいのですが、端折りすぎるとこの記事が胡乱の極みになるので最低限は書きます...

まず、個人的には原作はテーマ的にはDP以降は全作品がつながっており、特に3DS作品として生み出された3作品はテーマ的にも、まるでそれら自体が一つの作品であるかのような結びつきがあると考えています。

そのように予想した理由については、まずORASを見て、この作品は「人は元来一切の例外もなく、自分勝手でしかなく、共存という概念も自分勝手の一環でしかない」というものが含まていると感じ、そして対照的にXYは、フラダリに対して起きたことが死亡であり、パキラは生きておりクセロシキは捕まり、またヒガナについては断罪のようなものがされていない(されるべきという主張をしたいのではなく,むしろその逆)ので、まずXYとORASは密接に結びついていると予想した。

SM(USUM)については、元はあまり密接に結びついた作品とは思っていなかったが、「人は元来一切の例外もなく、自分勝手でしかなく、共存という概念も自分勝手の一環でしかない」という概念を振り返ると、その末路がウルトラビルディングでポケモンなりの表現をしたのではないかと予想し、USUMもこのテーマの一環としても存在すると考えた(結果、部分的に後述するが、テーマとしてかなり結びついていると改めて考えた)。

どのようなテーマで結びついているのかについて、明確な根拠を交えた詳しい話はいつか別記事で語るとし、ここでは予想した結論について端的に話す(繰り返しになるが、十分とは程遠く根拠が本当に不十分な単なる妄言に近い予想である事を示しておく)

(以下予想)

まず大前提として、人やポケモンに限らずすべての生物は自分の生存欲求に100%従って生きており、特に(少なくとも)人は他の生物が持つような武器の代わりに知識を持って生きるような生き物なので、個が個の心に平穏を保つため様々な行動をし、心を平穏に保つため個が自分の生存を保つための、個の幻想を信じる。

つまり、各々が様々な事情を抱えながら、生存を維持するために動いている、というのが大前提である。そして、その生存本能からか、同じ場所に停滞というのはどうも生存の安寧を保つことは無く(仮に誰かが平穏を保てたとしても、別の誰かが変化して自分の席を奪う可能性があるから、と予想するが実態は謎)、相克を続けて各々が各々の生存をさらに強く求め、ついには破滅して終わる...というのが大まかに予想される物である。

そういった類の話がこの3DS作品群にあると予想し、各作品について振り返る(ここから更に予想の根拠のような文章を省きます)(またこれ以降の文章で、長さ的な都合により断定的表現が増えますが、すべて余す所無く単なる妄言に近い予想に過ぎないことを示す)

まず、XYはこの一連の話をするための問題提起的な話であり、プレイヤー側に、プレイヤー達の信じている価値観が本当に正しいのか、という問題を書いたと予想する。

そしてORASでそれがすべて正しくも間違ってもいない、無に等しいものであることを示し(最終兵器に対する価値観や支持勢力の大きさが逆転していたり、フラダリと違いヒガナへの断罪がなかったり、共存を目指した最中で生まれた犠牲の描写等から)、最後にUSUMで、人同士のつながりはここの身勝手な利害関係が一致したときに結ばれるものでしかなく(スカル団エーテル財団や、エーテル財団環境保護といった関係性から)、そして上述のウルトラビルディングでの結論を出すことで、この予想の部分で最初に書いた大前提を示し、これ自体を描くことでポケモン世界のリアリティを増したり、メッセージ性を入れる意図があったのではないかと予想する(後者は可能性は高くないと思う)。

(予想終わり)

つまり一分でまとめると、「人類たちの歴史は、各々が各々の生存を守るために、価値観を見出しそれを信じ込んだりして、発展は止まらずいつか世界がそれに耐えれなくなり、3DS作品はこの一連を描いており、XYでは作品の最初としてプレイヤー達に自信が信じている価値観への問題提起のような作品ではないのだろうか」というお話でした。特にORASやUSUMについての話が突拍子がなさすぎると思われますが、ここら辺の話はいつか別途に書いておきたいですね。

2.カロス編はどのような立ち位置でどのような話なのか

ポケマスEXのカロス編は、そもそもホウエン編が先に来ていたこともあり、リリース前まで何を描くのか予想もつかなかった。価値観に善も悪もない事はホウエン編で示されており、それ自体が原作XYとORASで示した事だからだ。しかしカロス編のリリース編からしばらくして重要な部分を見落としていたことに気づいた。

3DS作品の物事の順序としては、最後にSM(USUM)で、人の繋がりが身勝手な利害の一致によるものでしかないことを描いていたので、ここに触れる余地が楚そもそもあったことに、遅く気づかされた(ORASまでで描いたと思っていたが、よくよく考えるとORASまでで主に描いていたのは価値観の善悪の無い事であり、利害の一致等はまだ描かれていなかった)。

つまり、この一連の原作での話の、ORASからSM(USUM)で描いた、いわば両作品の中間地点にあたるようなストーリーを、ホウエン編とカロス編の間で描いたように描いたと思われる。つまり、SM(USUM)の表ストーリーで描いたように、人同士の繋がりは利害の一致したときにしか発生しない部分を描いたと思われる。

というのもカロス編は、いわば危害を加えるフレア団が存在していないのと、またフレア団全員は思想の何一つ変えていないが、主人公サイドはフレア団と利害が一致したり、自身の生存が保たれることで見方が変わっているのだ。

過激な選民思想の集団に対し敵対するというエピソードより、実際リリースされたように利害が一致すれば平穏に一緒に物事を解決する流れのほうが、なんだか残酷に見える...

ところで、SM(USUM)がテーマ的にXYやORASとつながっているというこの記事の前提は不確定なことに変わりはないが、カロス編は何故かアローラ要素である国際警察リラが思いっきり話に食い込んでいるので、アローラのテーマにカロスが絡んでいる→SM(USUM)がテーマ的にXYやORASとつながっているという説を補強するのではないか、と踏んでいる。

カロス編だけの話をするならば、「人の繋がりや価値観は利害関係の一致や生存を満たすか否かで決まる」という話で終わってしまうが、前後関係は上述のような話だと予想する。

ついでにアローラ編について短く語るが、いくらテーマの最終地点の作品とはいえ、人類がいつか地球を目も当てられない世界にしてしまいます!とかいう陰鬱な話をそこで書くとは思えなかったが、実際本当にそれは描かずに、恐らく自然保護といった活動も人の身勝手な欲望の一環であるという話や、利害関係でしかない繋がりも、それ自体が本当の繋がりであり、生きる上で無くてはならない物であるという話を描き、その結末等を描く序章のようなエピソードだと予想する。(後半はいきなり出てきた概念じゃねえかと言われそうだが、上記のようなテーマを描く上で、物事を正確に描くために表した人の本質、と予想する)

駆け足だったが、最後にこのテーマの終結をどこで描くのかという話になるが、それはキリヤ編だと予想する(今まで既存キャラが自分たちの正しさを表すものとしてポケモンバトルの強さを誰しもが全面に出していたが、それが正しさを示すものでもなく、またその正しさを示すこと自体が他の事同様残酷であることを示すように、キリヤの問答無用に強さを求める姿が表れ、価値観とは何か、正しさとは何か等について、やんわりと示すものになると筆者は考えている)。

3DS作品がつながっているという予想の根拠や、原作3DS作品についての感想は別の記事で書こうと思う。

ポケマスEXのイッシュ編 (悪の組織編)の感想を、今までのイッシュエピソードと原作から一部振り返って語りたい

時間的には少なくとも24時間以内にパルデア地方への入学をする方々が多い時期であり、ポケマスEXのイッシュ悪の組織編完結から数日経った今ですが、非常に語りたくなってしまったので語ります

 

ゲーチス編の感想は自分は頭がフワフワした状態で書いていたので、完全に怪◯書紛いのものになってしまって、読み返すのも辛いですね…()

 

本当に素晴らしいと思ったので、また怪◯書が出来上がってしまうかもしれないが、取り敢えず備忘録として書きたい欲があるので、パルデア入学式の前に勝手に感想を書いちゃいます!

 

ポケマスEXの悪の組織編イッシュのストーリーや、ホームボイスからのネタバレを含むので閲覧には十分なご注意をよろしくお願いします。また、全ての内容は単なる根拠不十分の推測である事を強く認識していただけると幸いです。

 

①エピソードの全体像

 

エピソードの内容は各自で見てもらうとして、まず今作のエピソードは、

N、ヒュウ等を含む様々なキャラクター達の成長

が主軸だと思いました。その上で今作のエピソードの要素は複数あると思っていて、それは

 

・上記の通りNやヒュウ達の成長

・悪い事をすれば悪い事が返ってきたり、良い事をすれば良い事が返ってくるといった、「因果応報」の関係

・原作のテーマである「思想」の部分への追及

 

という3つだと思います。2つ目は何言ってだと思われそうですが、一旦話を進めます()

 

それぞれを軽く語っていこうと思います

 

まずはNやヒュウ達の成長

 

「思想への追及」の部分にも関わると思いますが、主軸なので話を進めますと、まずBW/BW2を通して、Nという人物に注目すると、まずNは原作では幼少期に様々な特殊な経験をする中で優しい少年に育ち、特にポケモン等への繋がりを尊い物と認識し、同時にゲーチスとの親子関係も尊いものと認識し、多大な価値を見出すようになりました。

 

その中で(恐らく)ポケモントレーナーを、ポケモンに無理強いをする残忍な人間達であると(ゲーチスに吹き込まれたか何かで)認識してしまい、若い故の知識不足等で気持ちが先行してしまい、(価値を守る事こそが自分を自分たらしめる事と認識したかはさておき)ポケモントレーナー達を差別し非難し引き剥がそうとしました。

 

(既に怪文書感が出てきた…!)

 

Nは自分の思想が、トウヤ(達)に負けたからではなく、トウヤ(達)の姿を見て、歪み間違っていた認識であった事・守りたかったポケモン達を自分のそうした欲求(や知識不足)が原因で傷つけてしまった事を悔い、自責の念を抱き始めました。

 

BW2は一旦省略するとして、イッシュ悪の組織編以前のエピソードでは、ゲーチス編では親子の関係を取り戻したいという欲求は、今まで悪い事をしてきた自分への罰として封印する様が見えます。

 

順番が前後しましたがNのパシオ入場会では、Nと似た(少し利己的な欲求が多い)ブレイク団員を、同じくブレイク団員本人にとって知識不足で取り返しのつかない事になる前に説得するシーンがありました。

 

ブレイク団員の思想を否定はせず上記のような説得ベースで、それでも止めようと尽力するNが印象的でした。

 

2022年の夏イベでは、Nが仲間達から「ひとりじゃない」事を伝えられました。かけがえのない絆を利己的欲求で引き裂いてしまった事に自責の念を抱いていたNが、仲間達からここまで慕われるシーンが出てきたのは、Nが仲間達、ポケモン達に心から優しく接し続けた故の「因果応報」なのかもしれません。

 

しかし、仲間達の絆の証である夏の宝物は、悪事を働いたブレイク団に仕返しの意味を込めての悪事の暴きをした瞬間に破壊されてしまいました。このシーンは、因果応報として報復を食らわすならば、Nにも「報復」が無くてはならないという、N自身の自責の念という「呪縛」が引き寄せたものなのかもしれません。

 

ただ、自責の念という因果応報の呪縛に囚われているだけではなく、優しさを振り撒いた分だけ返ってくるものがあるという「因果応報」もあるという事で、トウトウの二人は側に居続けました。

 

(イッシュ編の前に語りすぎちゃった…)

 

そして本題のイッシュ編ですが、様々な経験を経て、過去の失敗の大きな原因の一つである「知識不足」に向き合い解消して成長するNの姿は、同様の成長をしたヒュウと重なります。妹がチョロネコを奪われ怒りに燃えたヒュウは、原作ではその後に「プラズマ団の中にも良い奴はいる」という事を通して、

 

「敵を憎むあまりプラズマ団が絶対悪であって欲しいという欲求からくる認識の歪みへの冷静な気づき」や、「様々な場所に様々な背景の人々がいる事への気づき」

 

を得て成長しました。ここら辺は思想を取り巻くヒューマンドラマの一面があったBW/BW2のテーマに深く直結した重要な部分と言えると思います。

 

ヒュウがNの過去を知っても、中身を見て冷静に判断し寧ろ励ましたのは、上記の通りヒュウの成長やイッシュ原作のテーマの他に、そうした存在に励まされるようになる要因になった、Nの善行の返しという意味合いが込められたいるように思えます。

 

(Nの成長の様と重なる事から、Nは幼少期に、ヒュウ視点での「妹がチョロネコを奪われる」といったような経験で、BW原作のように過激になってしまったのかもしれませんね。イッシュ編でヒュウとNが一緒に閉じ込められたのもそうした意味合いがあるのかも…? 同時に、ヒュウとNは原作の段階で、立場の違う似た存在として描かれている可能性が高い事を今知りました… 自分は気づけないものですね…………)

 

話的にはこの後も続きますが、テーマ毎に分けると書いたので一旦ここで区切ります。

 

・因果応報の関係

 

原作BW2でのNのゼクロム(レシラム)が奪われかける展開、ポケマスEXでのゲーチス編の、ゲーチスキュレムとNのゼクロムがサカキに奪われかける展開、Nの自責の念、Nの夏祭りの宝物が壊される展開、イッシュ悪の組織編でゲーチスが奪ったゼクロムを唐突に登場させ自身のキュレムを合体させようとした結果、BW2で唐突に主人公を助けにきたNのゼクロム(レシラム)を奪って合体させた事の裏返しのように、唐突にやってきたトウヤのキュレムに阻止されブラックキュレムと対峙する事になった展開、(その他あるかもしれないが省略)、イッシュにまつわるエピソードには数々の「因果応報の関係」が描かれている。

 

犯した罪は返さなければならないという認識や流れがBW/BW2が「思想」をテーマの一つにした作品である事の表れや、自責の念に囚われるNの心象風景として「因果応報の関係」が活かされていると感じました。

 

ゲーチス編で、ストーリー上の展開とはいえNが最後に苦しまなければならなかったのか、という答えの一つにそうした「因果応報の関係」が挙げられるように、イッシュ悪の組織編でNが「助けられる存在になれた」のもまた、「因果応報の関係」がある、と考えるのが自然に思えました。

 

イッシュ編でNが優しく解放させたゲノセクトが、トウヤ達の元に流れ着いてNが助けられる手がかりになり、トウトウ・キョウメイ・元プラズマ団の長(?!)が一緒に助けに行く展開になったのは、その場で助けられたゲノセクト、今まで優しく接してきた皆の代表の人物達(アクロマは一旦さておき…)が表すように、それまで優しく接し続けたNへの「因果応報」に思えました。

 

何故ゲノセクトだったのか?という部分は、原作でプラズマ団魔改造された古代のポケモンという文脈を踏まえると、プラズマ団の身勝手な行為の「因果応報」なのでしょう。

 

以上の事や、「因果応報」がBW/BW2でも部分的に存在し、テーマとして活きていた事を踏まえると、マジコストウヤ&ゲノセクトは、

 

・イッシュのテーマや本質

・Nの善行の表れやそれに応えるトウヤ(達)

 

といった文脈を持ったバディーズに思えました。

 

ゲーチスがイッシュ編でダートリ達に冷たいのは、N達とその部分(返ってくるだけの優しさを振り撒いた事)で対照的であるという事なのかもしれません

 

ここからは思想の話…

 

・「思想」の部分への追及

 

上記の部分はBW2の成長といった要素が中心でしたが、ここからは原作を含むイッシュのストーリー全体に関係する、「思想」の話をします。

 

原作のNはポケモンの解放を望みましたが、それが「異なる意見を受け入れなかった」という意味での部分でもNは悔いています。その後Nは「異なる意見を排除するのではなく 受け入れる」事を意志においていますが、トウトウ等含めて皆、ゲーチスの行為には反対しています。これは何を意味するのだろうか?

 

一般論として、思想に正しいも間違いもありません。異なる思想を受け入れるべき(壊すべき)という思想も同様です。ゲーチスの思想(?)もまた同様です。

 

そう、現在のNの思想もまた、プラズマ団の王であった時のように、一方的なのです。前と違うのは、Nは全体を見渡せられ、知識不足を改められる上、トウトウ・その他大勢の人間(多くのプレイヤー達)が同じ思想である事でしょう。

 

その一方的な思想を、プラズマ団の王の時のように覚悟を持って前に出て進む決意を持った結果、Nのマジコスはあのような(プラズマ団の王のような)服装になったのかもしれません。マジコスのあのデザインだけでなく、マジコスNのBGMがプラズマ団のような雰囲気を現すNの城アレンジなのがそれを凄く表していると思いました。

 

また、Nが決意を持ったと認識出来るシーンは複数ありますが、Bキュレムを授かった後の事として考えると、ゲーチスと決別した場面だと思います。

 

それまで自責の念だけでなく、様々な理由で自分がどうすれば良いのか分からなかったN。そんなNがポケマスEXを含む様々な経験を経て、「ポケモン・ニンゲン達を守る」という、思想の一つを信じて動く決断に至ったのがゲーチスとの決別のシーンで明らかになったから、と思います。

 

そんな優柔不断で知識不足の中、人に優しく想いの強いNは今までゲーチスにとって操りやすかったのでしょう。しかし、主人公達と同じように、何をすべきかがしっかり分かった今のNは、到底操れるような部分はありません。ゲーチスの最後の(明らかに嘘っぽい)同情を誘いそうな言葉は、Nに迷いを生じさせる意味での爪痕を残そうとした台詞だと思えますが(諸説多あり)、何にせよNにはもう通じません。

 

Nがプラズマ団の王の時と同じように(知識不足、その他の幾多の成長の有無という違いはあるが)一つの思想を信じて進むという意味での決意を持った、という部分は、どこまでいってもヒトは白か黒かで分断されているという「真実」を表していると言えるのかもしれません。また、それこそがBW/BW2のテーマへの絶対的な答えに思えます。

 

また、トウヤがゲノセクトとバディーズになったのと同じように、NがBキュレムとバディーズになった意味も深く込められていると思いました。

 

それは、まずNの思想はゲーチスと対峙するという意味を表すキュレムの要素、また、トウヤのキュレムとNのゼクロムの合体という、二つの思想の調和が示されているという部分。

 

勿論思想の調和ではなく合体であり、Nの言う「全ての思想の調和」では無い事を示すかのように、このキュレムはブラックキュレムであり、対峙するホワイトキュレムの存在は設定上にあり、結局平等な思想の一つでしかないという事が示されているように思えました。

 

対峙するゲーチスキュレムに対し、「ほんものは二ついても良い」というトウヤのセリフは、ゲーチスが「異質であったりイレギュラーである存在」ではなく「対峙するもう一つの存在」である事を表しているように思えました。

 

(BWの次の作品がグレーというような名前の作品ではなくBW2であったり、ゼクロム・レシラム・キュレムが合体した姿が設定上は明らかでない、合体する姿はBキュレム・Wキュレムと、互いに対照的な姿のままである事を踏まえると、もしかして思想が調和した思想だと思っているものも、別の思想と反対の一つの思想でしか無い、という事や、グレーの世界など存在しないという事を、原作の段階で示していたのだろうか それはもちろん自分にはわかりません…)

 

大方予想できる要素は語り尽くしましたが、余談と称してもう少し語ってから、最後に感想を少し語って終わりにします(この記事は感想記事では無かったのか?!)

 

2.余談

余談の部分は箇条書きにして軽く語って終わります。

 

・Nは本当に人間味が無かったのか?

 

そんな事はなく、むしろ人間味のあるキャラクターとして描かれている。自他共に人間味の怪しいキャラクターと称されるのは、それ自体が人間らしさの表れであり、BW/BW2が人間味溢れたストーリーである事を示しているように思えました。キャラクターは例外なく全員人間味があると思います。

 

・Nの「思想の調和を望む」という認識の正体は?

 

調和を望むと言ったNや、人間の思想に優劣を付けるのは非人間的と思ったアデクも、ゲーチスの事はバケモノと思ったり間違ってると思ったりする。

 

そうした自己認識もまた、本人達の真の自己認識はそうした場面で間違えるというのも、大きいリアリティがある〜と思いました。

 

・Nってなんで早口だったの?

 

分かりませんが、ああいった内容の事を言う際に、早口で言っているという要素が加わる事で、人間味がある事の表れかもしれませんね

 

・原作のゲーチスって物語上でどういった役割があったのか?

 

上記の通り「本当に間違っていると思われている」存在であり、ゲーチス無しには人々の思想がどこまで行っても一方的でしか無い事が表せられない。

 

また、人の思想というのは視点を変えてしまえば、誰かが利用できる道具のようなものでしかないという事も表せられる気がします。その部分があるという根拠は(特に)十分では無いですが、このすぐ後に語る余談を踏まえると、そうでも無いと思ってしまいます

 

その余談とは↓

 

・原作でのアクロマの物語的役割とは?

 

アクロマはN達が本気で気にかけている部分に全くの無頓着であり、Nの認識がアクロマのようになったら、本当に「人間味」が無くなった、と思ってしまうかもしれない、そんな存在です。しかしそんなアクロマも、心の底では絆が生み出す力が一番強いという事を信仰していたり、ゲーチスはキライだったりと、人間味のある部分が多いように思えます。

 

また、アクロマは結構な悪事を働いた気がしますが、ポケマスでも何の報復も食らいませんでした。

 

以上の事から、逆説的にN達が人間味のあるキャラクターである事や、「自責の念」や「自責の念」が生み出す「因果応報」といった概念も何も、逆説的に無から生まれた単なる幻想でしかない事を表す存在である事を示すキャラクターに思えます。ゲーチスも似たような事を示す存在なのかもしれない、と思いました。

 

Nが人間味があるキャラクターであると強調される事の意味は、Nもまた一人の人間であり、人が持つ認識とは違う絶対的な存在では無いという事を示す意味があると思います。

 

(原作を見るとついついNが人間味の無い、どこか答えを知ったキャラクターに思えてしまうが、実際は同じ人間である、という事が上記の事から重要であると考えます。)

 

ここからは話が逸れますが、プラズマ団が単なる団体ではなく宗◯団体のように描かれたのは、プラズマ団を動かす団員の原動力が信仰心となる事を踏まえると、思想の根源は何かに信仰したい欲の元である、何かへの不満・不足である事を示していたり、Nが宗教の長である事を表す事で、Nが絶対的でどこか違う雰囲気を出させ、実際は人間味に厚い存在である事を強調する意味合いがあると思いました。

 

また、プラズマ団員はNと違い、利己的な部分が多く、居場所を与えられればそれで良いと思っている団員や、人の上に立ってやろうとする団員も多かったが、実はNも根底はあまり違わないのかもしれませんし、ある意味ではそこも遠回しにNの人間味を表していたのかもしれない…

 

・イッシュ悪の組織編続編があるとして、どんなストーリーになるのか?

 

そもそも続編があると思われる要因である、イッシュ悪の組織編ラストのシーンは、ゲーチスに策が無くなると精神が崩壊してしまう故のシーンだと思っているので、そもそも続編は無いと思っているのですが(現時点でBW/BW2の要素を全て過不足なく備えていると思う)、それにしては続編が無いというには疑問の残るシーンであり、原作の構造上異質なので仕方ないが、マジコスキョウメイが来ない事になるので、イッシュ編後編があるという前提で話を進めると、どういった話になるかを考える。

 

長い前置きの割に短く終えるが、ゲーチスの派閥もまたNの派閥(?)と同じような人達がそこそこいる事を突きつけられるも、N達はその正義を実行し続ける決意を新たにする、といったストーリーになると思います。

 

唯一拾ってない要素は、原作で唯一示されていないいない「罪の無いポケモン達を守るべき」という思想の正当性への疑問なので、Nの思想の鮮明化というストーリーになり、エピローグ的なものになりそうですね。マジコスゲーチスを出す場合はNと対照的な存在であるWキュレムを持ってきそうですが、レシラムと無理矢理合体は流石にアレなので出てこないと思います() 

 

続編があるとするならば、Nがプラズマ団の王のように決意を持ったという事から、トウトウ達が誰かから見ればプラズマ団のような脅威を持っていると思われるシーンがあったりとかするのかもしれないですね。

 

それでも尚N達はその思想を全うする決意を示し、そのエンドはハッピーエンドななかビターエンドなのか、見る人の判断によって変わる…とか?生々しいかもですね

 

追記: 後の余談でも書いていますが、Nが心から受け入れられた今、Nは周りと同じように本心を出す事を受け入れられたという事になり、実際積極的にNが本心を出すかはさておき、トウトウキョウメイのうち誰かが間違いを犯しかけて、それをNが咎めるシーンがあるのかもしれない…?

 

キョウヘイが実生活で上手くいかず、その不満を晴らすために思わず血眼に敵を見つけて排除しようとしてしまったりとか…それをNに咎められて考え直したりとか…(さっきから生々しい!)

 

追記終

 

 

 

 

・Nの「自責の念」は終わったのか?

 

終わってないと思うが、自責の念を持つNに、自責の念を持ってしまう事を肯定はしつつも、自責の念はいつまでも持たなくても良いという事を示してくれる仲間達が側にいるようになった、という事を示していると思います。

 

これはゲーチス編でのNの姿からは対照的であり、このように変わることが出来たのがNという人物像を表していると思います。

 

Nの自責の念を表す心象風景としての、実際に影響を及ぼす「因果応報」は、Nの善行が生んだ、「トウトウ達から『もうそれ以上自責の念に悩まされなくて良い』という言葉のプレゼントによる気づき」という「因果応報」により、打ち消されたと言える。

 

重ねて言うが、この一連の流れが、Nの人物像や、BW/BW2のテーマ、その他あらゆる原作の要素が込められているといって良いでしょう。

 

・原作のBW(BW2)とSM(USUM)が似ている事についての要素

 

(原作の話です)

 

USUM発売の段階で気づいた人はいるかもしれないが、明らかにこの2作品はあまりに似ている。

 

パッケージの伝説のポケモンが、最初の作品で話で上がらなかった、クリア後に会える伝説のポケモンと2作品目で合体してパッケージを飾ったり、そのポケモンは完全体にはならなかったり、最終的な姿のタイプはパッケージで変わらなかったり(ウルネクをどう捉えるかは人それぞれ)、なんかアクロマが出てきたり、二作品目に移る際にアベニュー的要素が充実したり、過去作のトレーナーと戦えるモードが出てきたり、ストーリーにガッツリ関わってくるキャラクターが一作品目では最後にいなくなって二作品目で常駐したり、主人公の姿が作品移って変わったり、悪の組織が善良組織として振る舞っていたり、ボスが所謂毒親(過激表現!)だったり、ストーリーにテーマがかなり展開されていたり、色々とめちゃくちゃ似ている。

 

似ているとは何を意味するかは詳しくは分からないが、単なる予想のため端的に言うと、SM(USUM)がXY、ORASで描かれた共存といったテーマの終着点だと思うので、その原点がBW(BW2)にあった、という話なのかもしれません。また、そもそもBWからBW2の流れが、赤緑から金銀への流れと似ている為、そのオマージュかもしれませんね。

 

・Bキュレムの真実(ホームボイスバレ)

 

Bキュレムは原作での伝承の事はよくわかってないらしい。隕石からやってきてたり、穴に入った人間が戻ってこなかったりとか

 

これは完全な妄想ですが、伝承が全て嘘で、ゼクレシの合体もキュレムとの三匹合体も全て嘘だったら、そもそもゼクレシの合体というのは、誰かの願望だったのかもしれませんね

 

異なる思想は調和する事で真の平和がもたらされる…的な…  

 

そうして伝説のポケモン二匹を、夢想主義者と現実主義者の代表に分け、伝承を伝えた…とか

 

ただ信仰心というのは、原作での姿は言うなればプラズマ団なので、結局は白か黒かの世界でしかなく、グレー、すなわちゼクレシの合体は無いんですよね。

 

しかし、ゼクレシの合体に意味が有る無しと騒いでも、当の伝説ポケモン達は全く関係無いので、結局騒いでる側も信仰した方向性が違うだけだったという話があったり…

 

ただ偶然なのか否かはさておき、キュレムとはそれぞれ合体する。異なっていると思われる思想が合体しても、別の思想と対峙した物でしかないといったり…

 

取り敢えず完全なる妄想はここまでにしておきます()

 

・Nの、トウトウキョウメイ達への感情

 

自責の念という部分にも関係のある話題ですが、端的に言えばNはトウトウキョウメイに対して、「取り返しのつかない悪事を働いたのに心を許してくれる凄い存在」であり、「思わず心を委ねてしまう存在」でもあり、いわゆる激重感情ってやつですね。今まで通りのNらしく振る舞えばトウトウキョウメイ達は今まで通り優しく答えてくれるけど、実際のNは本当に心から感謝してやまないっていう感じかもですね

 

だからゲーチス編でのラストでキョウヘイ達に対しても、自責の念からキョウヘイ達に反発する資格はないと思っていたり、悪事を働いた自分はキョウヘイ達に対して気丈に振る舞わなければならない、といった意志が、Nが自然体で振る舞いつつも心の中ではどうしようもなく深く悩み込んでいる事に繋がったのでしょう 重〜…

 

また、Nは罪を償う際にそれが耐えられなくて甘えたというより、罪を償う際に彼らからの助けを受けちゃいけないという意志があったかもしれないけど、それを裏切るのはNの主義に反するという事であり、そこに人間味を出したと推測します(他のより根拠が薄い)。

 

ただNはそれを、本人自身の自分への厳しさから勘違いしてしまったのかもしれません。この勘違いという要素も、前述の通り人間味を示す要素ですからね…

 

 

Nが深く受け入れられた今、Nがトウトウキョウメイに対して"素“を出すシーンがいつか来るかもしれませんね それが続編…? 

 

・イッシュ編悪の組織編ラストをアクロマが締めた事

 

イッシュ編はアクロマが絶頂して一人で語ってトウコに引かれて終わりましたが、アレはアクロマが絆の力こそが一番強い、という現実がある可能性に興奮しただけではない、と思いました。

 

それを説明するにあたって原作について話すと、原作BW/BW2は、勿論思想というテーマを軸に進んだストーリーではありましたが、あくまで思想について伝えるための作品とは思い難いです。単純にポケモンシリーズを通して、大前提はプレイヤーの体験を重要視する傾向があると思われるからです。

 

なのでそもそも原作BW/BW2は、思想を中心に渦巻くストーリーがあっても、全体としてはその中で懸命に頑張る人間味溢れたキャラクター達がいる、人情深く、どこか優しい世界観というのがあったような気がします(単に筆者の原作プレイの感想)。

 

イッシュ編本編でも、頭脳プレイと言いながら壁破壊を狙うキョウヘイだったり、Nの元に移動する際にシュールに進むゲノセクトだったり、絶頂するアクロマとそれを見て引くトウコだったり、マジコスに着替えたトウヤ・Nに対して1秒で対戦し始めるトウコだったり、何だかんだでどこか緩く優しい人間味のある世界観があり、それが随所で表れていると感じました。

 

そしてそれがオチに使われたのは、BW/BW2は思想について語るための作品というだけの存在ではなく、真髄はそうした世界観が織りなす人情味溢れる中でのプレイヤー体験というのが重要な事、というのを表した、のかもしれませんね

 

 

 

まだ気づけていない要素はあると思うのですが、今思っている事は大体書いたので、いずれ追記はするかもしれませんが、一旦ここで終わり

 

3.感想

 

こんなデカデカと感想とか書くものでは無いのですが()、まあ少し感想を書きます。

 

まず、決戦!NのBGMが最高でした… Nの城の厳格的なアレンジから、Nの方向性が予想できて、それが良い意味で予想外かつ、答えを出してきた事が伝わって最高でした!

 

後編PVを曲の為に複数回見てしまうほどに…

 

また、BW/BW2のテーマ等を不足なく表現し、なおかつ過剰な壮大にならず、それでいて尚イッシュの全体的な、小さくも温かい人情深い空気がそのままあって、そこも凄く感動しました…!(勿論何であっても良いけど、それはさておきそうしたストーリーを作った事が個人的に素晴らしいと感じた!)

 

 

ポケマスEX自体も本当に凄いのですが、これだけの意味合いを込められている原作ポケモンシリーズが本当に凄いですね…

 

 

まだ自分が分かってない・認識の違う部分もあると思いますが、非常に好きなエピソードでした!どの地方に対しても全力なのが伝わってくるのも、個人的に好きなポイントです(何であっても良いんですよ!) 

 

また追記はあるかもしれませんが、おしまい〜

 

 

 

 

P.S. ダートリのキリキザン達に一撃でダイケンキグラエナも倒されたのがグラエナの威嚇でキリキザンの負けん気が発動したからと言われてたのが笑いました トリプルバトル…!

 

 

 

 

 

ORASが好きなのでポケマスEXのミツルのエピソードもブログで語る

最近出てきたミツルのエピソードも好きだったので語ろうと思ってたが、書くタイミングを逃したので今書く 長さ自体は短いと思う

 

 

いや〜ミツル君のORASでの、ED後に強さに溺れたあの部分を回収するとは思わなかったですね ちょっとしたノリで描かれた部分だと思ってたので、しっかり回収された事が驚きましたし、改めてこの部分もORASのテーマが絡んでるのではないかと考えようと思いました

 

内容自体にはあまり触れませんが、ミツル君が強さに溺れ切ってしまう所を、カルネやダツラの姿を見て反省し、改めてサーナイトと向き合うというエピソードだったのですが、このエピソードについて数点触れたかった部分を軽く触れます。

 

まず一番は、そもそもミツル君は何故強さに溺れた(いわゆる廃◯になった)のだろうか?という話です

 

ORASのテーマについての予想は省略しますが、概ね共存や共生がテーマとすると、原作のED後のミツル君の行動は自分本位そのものなんですよね。自分の強さの為にポケモンにそれを押し付けてしまうという… (色んな意見があるのはこの際省略します)

 

何故ミツル君がその役割を担ったのだろうか?という部分は少し気になりました。

 

原作ミツル君の大きな要素としては、病弱で家に篭りきりだったのと、独り立ちしようとして親から離れたという二点が挙げられるでしょう。ここだけの話だと、ミツル君のED後のあのような姿になる理由は、ミツル君が社会的な部分に触れる事が少なかった為に人としての感性が乏しいという個性の元生まれたのか、ORASのテーマの元、本当の部分では共存のような物ではなく自分の生を望んでいるという部分が顕になる、ORAS原作に共通した話の一環なのか、それとも全く別の話なのか(単なるノリ…?)、正直良く分かりません。この記事が終わる頃にも良くわかっていないのですが…()

 

よく分からなかったのでスルーしますが、一旦前述の、ORAS原作に共通した話という部分を頭の片隅に入れておきながら話を進めます。

 

気になった点はもう一つあって、ミツル君とカルネさん、ポケマス本ストーリー内で結構密接なんですよね。某漫画のようにぶつかる描写が珍しくあったり、強いチームを作る為とはいえミツル君がカルネさんと同じチームになる事にこだわっていたり… その後もサーナイトの為とは言えカルネさんをカフェに誘っていたり…

 

正直妄想の範疇を出ないのですが、サーナイトの為とはいえ少し密接な関係性のように見えてしまいました。サーナイトの為というのが建前なのでは…と思ってしまうように… 

 

単にポケモンの事を考えているという描写にしては、少し強調されているような…?ただ根拠は薄いままなので、あくまで妄想の範疇として話を進めます。(内容が内容なので、あらゆる話の断定は一切しない事を銘じておきます)

 

ではもし、ミツルくんとカルネさんと少し密接な関係を迫ろうとしていたのだったら…?

 

み…ミツル君…というのはさておき、これはミツル君自体が欲深いという描写ではないだろうか。ポケモンバトルで強くなりたいという欲の他、そのような欲も… 

 

その一方でミツル君は病弱で心細い思いをしてきた人間。両親から心配されて育ったとはいえ、独り立ちに賛同されない事を原作では強調されていた。一体どのような表現・描写なのだろうか?

 

少し話を変えると、ORASのダイゴやヒガナを始めとした主要キャラクターは、皆共存のような概念を持ち出しているとはいえ、自分自身の生存欲に従った人間だと思っている(そもそも自分を含めこの世の全ての人間が…)

 

例えばダイゴは、自身が共存の為に奔走していると感じているものの、本人としての問題は隕石を次元移動させて落とした先の事を考えなかったという部分で、命の選択をする基準がある→差別的な部分がある→自分本位、という結末だろう。本人以外の部分である、デボンコーポレーションのエネルギー源がポケモンの生体エネルギーという話が衝撃的なのだが、本人の話とは言い切れないし違うとも言い切れないので多くは触れない。

 

最も、自分本位で悪いという話でも良いという話でも無いのだが…

 

それはさておき、前述の話は逆に言えばこうとも言える。自分の為に生きる人間という存在でありながら、自分を人の共存という幻想の為に人一倍奔走していると認識する、矛盾した人間の「生」を維持する為には、ポケモン(に限らず何かしらの生き物)の命が無ければならない、という話に…

 

「生」を求めて動くという存在を描く以上、「生」を求めて動く存在の「生」を中心とした実態を描く作品が出るのも自然といえるだろう。

 

 

話を戻すと、ミツルはこれまで病弱で篭りきりで、両親から心配されつつも独り立ちに賛成されない存在だったという点を踏まえると、少し違う可能性も見えてくる。ミツル君の上記の過去が有ると、いわば情け無さや劣等感やそれに伴う焦りといった感情が出てくる人もいる。アイデンティティを見つけたいという人も出てくるだろう。

 

その上ミツル君は少なくとも表面上は心優しい少年。そうしたミツル君がミツル君たらしめる要因である、彼の本当の欲求というのは、前述の心の中の不満を解消する為のものである可能性があり、ポケモン勝負で強くなるという欲であっても不自然ではない。

 

原作のED前から、アイデンティティに苦しんでいる存在だったとは思う。病弱で外にも出られない存在が主人公の姿に憧れる様や、主人公にバトルを数回本気で申し込む姿、ED後はRSE自体から積極的にバトルを申し込むあの姿を考えると、当初から単なる少年では無かった可能性が高い。

 

ミツル君がとにかく自分という存在に悩んでいた人間だとすると、それは承認欲求と表すのも無理はないだろう。カルネさんと同じチームになろうとするのも、そうした背景があるように思える。

 

 

纏めると、ミツル君はその幼少期の経験から、心に不満(劣等感)を持っており、優しい少年の一面はありつつも、その不満を解消する為に、自分が上の存在でなければならない、という欲を持つようになった、という予想だ。上の存在、というのは、いわばヒエラルキーのような物だ。

 

ミツル君がカルネさんと組みたがったのは、良い言い方をすればチャンピオンに認められたかった、という感情だろう。その他一連の描写を見ると、それ以上の関係になろうとしているような雰囲気が見えなくもないが…

 

ところで、カルネさんとカフェに行く約束をしてENDを迎えたストーリーだったが、そこで終わったという事実に深い意味があるとは想定もそこまでしていないが、個人的にはその終わり方は、ミツル君は欲が豊富で強いという事を表していると思ったが、もしかすると、ミツル君はその後また欲がORASのED後のようになって、カフェで"失敗"してしまうのかも…?と思ってしまいました。

 

仮に自分の予想が当たっていたとしても当たっていなかったとしても、その部分が確かか否かはぼかすような形になっていると思うので、それ以上の根拠には言及しません。

 

最後に、ミツル君やカルネさんはサーナイトをバディにしている事もあってか、言葉要らずに心がわかったり、コミュニケーションが出来たりする場面が多かったが、これはサーナイトのバディという事を表すためだけの描写だったのだろうか?

 

手短に言うと、自分としてはORAS特有の、表面上取り繕ってても中身や本質が分かってしまうといった描写が含まれていると思ったが、それ以上は分からないのでそれはそこまで触れない。

 

 

という部分が大方注目していた部分であった。ミツル君がORASであのようになった事は様々な意見もあったが、手持ちがガルカブマリルリ+αとちょっと露骨に見える部分もあったかもしれないが、ORASが人の生を描く作品でもあった事を踏まえると、彼のような幼少期だとそのようになる可能性がある、という事を描写する事は自然のように今は思う。勿論それは可能性の段階でしかないが… 前述もしたが、RSEでもちょっと勝つ事に相当拘っていたのは忘れていたな…と自戒する所です。

 

 

ORASのテーマとしてはメインストーリーの部分に興味があったのでミツル君の描写はスルーしていましたが、こうして見るとミツル君もまた深く関わっている可能性がとてもある事を感じさせられました。

 

 

ORASメインストーリーとはまた違う、人の「生」の描写がある事で、ORASから伝わる「生」の描写・表現が伝わるストーリーでもありました!(個人的感想・妄想)

 

 

ここからはもっと雑な感想です

 

・カルネさん可愛かった…!

 

カルネさんが可愛かったです(直球) ミツル君との某漫画的展開だったり、そういった一面も出てくる描写があって笑顔になりました() カルネさんはポケマスEXで出てきたから好きになったキャラクターなので注目しちゃいました。

 

・ミツルの相方がダツラとネジキ…!

 

ファクトリーヘッド繋がり…!というよりもダツラとミツルが繋がっているのが驚愕なのですが、意外とここ重要だったりするのかな?最初期キャラクターとして普通に出てきているので時空の話はあまり関連無さそうな気がしますが…

どちらかというとダツラとミツルが絡むのはRSE感があるといいますか… その一方でORASにダツラは出てきてないけどポケマスはそこら辺が(敢えて)有耶無耶になってそうなのでOKという塩梅…かな?RSE要素だったのかもしれない

ファクトリーヘッドの内面も分かるお話でした。

 

総括すると、ORASの触れられてない要素(シーキンセツ触れるかな…?)であるミツル君の部分の話が、(恐らく)ORAS要素も踏まえて描かれていてとても感動しました!RSもORASもプレイしたし好きなので、個人的にとても嬉しかったです

 

書き残したことがあるかもしれませんが、眠すぎるのでここで終

 

 

 

 

 

 

SM・USUMはXYやORASと関係があるのだろうか

小話です

 

相変わらず自分の日本語が終了しています…また、文中に所々断定表現がありますが、全て例外なく筆者の根拠不十分の推測に過ぎません

 

いつも以上に日本語が終了している為、もし見かけてしまったら、個人の備忘録だと思ってください。

 

↓以下記事↓

 

ポケモン本編作品であるSM・USUM(以下USUM)は、同じ3DS作品であるXYやORASが何かと接点の多い作品であると思っているが、その一方でUSUMは独立した新しい作品と片づけていたが、果たしてそれは本当なのだろうか?と少し考えたくなった為、雑に書こうと決めた。先に結論を少し書いておくと、恐らく接点は深く有る、と予想したら

 

以前から自分が思っている事として、XYとORASは二つで一つの作品、とまでは言わなくとも、テーマが二つで一つのように思わされるくらいには似通った作品だと思うのですが、では七世代の作品は、同じ3DS作品とはいえ独立した作品なのだろうか?

 

超大雑把に言ってXYやORASは、まず共通したテーマとして「共存」を挙げると、XYは人間が互いに生きる為にルールを作ったり等していくと、その「生きたい」という欲求が他人の生を阻害してしまい共存が難しくなったり、そもそもそのルールはそうした生の為に人間達が作ったものに過ぎなく、絶対的な正しさは存在しないということを(主に表ストーリー終了後に)描写されていた。

 

勿論XYが出したテーマはこれに限らないと思われるが、ここではあまり触れないでおく。

 

一方ORASでは、そもそも共存とは何か、について触れた。人間・ポケモン…ありとあらゆる生き物がそれぞれ自分の命を最優先し、その過程で「共存」を口にしたりそれに向き合う事があっても、根の部分は自身の命の為であり、結局共存は不可能に近い、というような話、と自分は予想した。(あくまで予想・推測)

 

ほんの少しこの2作品について語ると、XYは現実世界に即したようなエピソードで共存について語られており、その後にORASという、時間軸にしてXYの前のエピソードを描くこの構図は、まずXYで、特定の現実問題(勿論現代だからこそ存在する問題、というより単に現代において存在する問題、というだけ)に対するエピソードを描いて問題提起をし、ORASでその問題の原点、現実を描いて一つの締めを行う、そうした構図とも取れるだろう。同時に、ORASの一部キャラクターがXYでどのような結末を迎えるのか、想像を膨らませられるという一面もある。

 

総じてこの2作品は共存について徹底的に描いた作品と言えるだろう。

 

と言ったところで次回作のUSUMについて考える。

 

まず明らかに近代の都会の喧騒とは独立した自然豊かな地が舞台であり、その姿は表面上は生き物が互いに共存した地だと言えるだろう。

 

序盤から終盤まで人間とポケモンと自然が互いに密接に接しあって出来た文化が生成されており、やはり共存がされている地という印象を強く覚える。その為、少なくともXYやORASと接点が無いとは言い辛い。

 

また、この作品は表面上共存がされた作品というのも大体正しいとして先に進むのが良さそう。

 

その上で話を進めると、概ねこの作品は共存や相互理解といった部分が多く出ており、それはRR団編後のルザミーネザオボーへの理解もその一つだろう。

 

しかしそれで終わる作品では無い。共存がそもそも不可能というような話をした過去作を踏まえると、例えばデボンコーポレーションのように、共存ができているように見える場所は大体どこかに歪みがあるものである。具体的に言えば、誰かの命を得て地位を得て生を保っている。

 

踏み台になっている存在は、誰もが分かる通りスカル団である。物語序盤からイリマが完全無視を決めたり、その他大勢のキャラクターからは、嫌われているというよりナチュラルな差別を受けている。存在自体が許されないような物のように…

 

周りのキャラクター達の反応も特徴的である。ただ嫌うのではなく、知識や理知に価値を置く集団だからこそ、「存在してはいけないと思っているけど直接消すのはその理知にそぐわない」ような存在に対し、静かに関わらないようにする反応である。作品の時間軸自体は当時最新なだけに、差別の仕方も中々にリアルである。

 

しょっぴかずに居場所を設けるクチナシ、(エーテル財団の話は後で語るが)心理的な居場所を与えてくれる存在としてのルザミーネ。特にクチナシはそうした正義による差別を執行する側に見えるが、本質を察しているので居場所を設けるという「共存」の手段を取っている。

  

そして話はルザミーネに移る。過去のトラウマ的経験から、自分に必ず付いて離れない存在を求めるようになる。言わば共存とは正反対の欲求だろう。

 

その口実として、表ではポケモン保護活動を行なっており、サニーゴヒドイデという自然の現実、言い換えれば生の現実にも正面から向き合う、「表面上は明らかに正しい人間」という存在である。歳が想像出来ないくらい若かったり、そもそも容姿端麗だったり女性だったり…なんてことを自分が大声で言ったら現代だと叩かれそうだが、現実の社会的上位と見られてしまう存在のリアルを描いているように見える。

 

それと同時に、現代の「裏がある系統の人物」のリアルでもある。表面的に共存を目指す存在を演じる事で、自身の共存とは正反対の欲求を通す口実を作れるという…

 

 

その後ルザミーネは実態が暴かれる事になるが、自分の欲求が正当である口実を突きつける。しかしその後ネクロズマとの経験を見せられ、無理矢理かつ強引にソルガレオ(ルナアーラ)と融合しようとするようなネクロズマという存在を見て、自身の欲求の実態に改めて気づき、その後は自分に明白に敵意を向けて実害を出したザオボーに対しても、その実態や実情を見て追放処分はしない結末に至った…

 

後半は端折ったが、要するに共存という概念をチラつかせて、実際は共存とは正反対に自分を満たしてくれる道具のような存在として手に入れようとしていた存在である。勿論ルザミーネも悲しき過去の犠牲者なのだが…

 

共存を主にしたテーマというより、詐◯やDVの実態がテーマなんじゃないかと思わされるが、スカル団の描写等や、後述にする話を考えるとやはり共存がテーマと言えるだろう。

 

一旦一つの話を区切ると、ルザミーネと共存というのはどのような関係性なのだろうか

 

デボンコーポレーションのように、共存に近い存在はどこかで歪みが生じていたのと同じように、ルザミーネもまた共存という存在を求めていたのは自分の欲求があったから、という関係性だろう。大元の自分の邪心という行動欲求に反省をした今、エーテルパラダイスが今後どうなるのかは分からないが、書いてる途中に新代表がグラジオになったことを思い出した。わざわざ代表が変わったのはルザミーネの代表を務め活動をするモチベーションに反省をしたから、そのモチベーションが無くなった、という話なのかもしれない

 

そう考えるとやはり共存に近しい存在には、近しい分歪みがある、という関係性を維持していると思われる。

 

総じてXYやORASの価値観の復習のような物だろう。

 

余談だが、ルザミーネが主人公に「でも貴方も使えなくなったポケモンはボックスに入れるでしょう?(意訳)」といったセリフが当時話題を呼んだが、これはプレイヤー側の「共存できていない部分」だろう。

 

誰もが共存なと出来ておらず、ルザミーネ1人が間違っていて主人公が正しいという構図でも無い、ということを表しているのかもしれない。

 

 

 

本題はここからである。

 

話は端折るが、ウルトラビルディングを見る限り、アローラ地方、というかポケモンの世界は誰一人として住めない環境になり、人類は地球から逃げている。原因を見ると、どうやら観光業を盛んにさせ発電力を高くする為に火◯発電等に手を出したから、というのが一つの要因と思われる。実際は放射能が蔓延している為、原◯力発電に関係があるかもしれないがそもそもこれ戦争後のようにも見える。

 

発電方法というより、技術発展に伴う環境悪化が要因とされている。

 

結論から言ってウルトラビルディングの描写は、つまりアローラ地方は今はまだ技術は乏しい為皆が手を取り合って生きなければ生きられないが、この先技術革新に伴って互いが自分の欲のために強く動こうとして、全て破壊されてしまうという話だろう。

 

逆に言えばこれは共存とは何かをも表しているように見える。技術に乏しい段階では、互いの生が自分の生であるからこそ共存はするし、自分の生の為には社会的地位において下になる訳にはいかないから、ヒエラルキー的価値観が備わる中でスカル団という下の存在を蔑む、という、「共存は出来ていない」という相変わらずの現実をも見せている。

 

「出来る事が少ないから共存のような形を取れる」「そうは言っても根は共存ではなく自分の生を一番に優先させている為、ヒエラルキー的価値観を持ちその中で下の存在を蔑む」「技術的に出来る事が多くなると、自身の生をより良いものにする為に過激な方向に走っていき、最後は破滅する」

 

これらは全て生き物と共存という関係性のリアルである。

 

総じてUSUMは、側から見て明らかに共存出来ているアローラ地方であっても実際はXYやORASで描かれた話と同じような輪廻の中にいる一つであるという話と、このままいけば未来がマズイ事になり、USUMストーリー完結時点ではその兆しが見える、また、USUMは技術が発展途上な為に共存という形をとっているように見えるだけで、実際の人間性は他の地方のそれより上でも下でも無い、という、人間の本質と共存の本質という形への結論のようなストーリーだろう。

 

 

総じてXYやORASの文脈があるように思える為、やはり繋がりがあるように感じた。また、XYやORASより時間軸が先の事でもあり、両作品への結論のような物を表している雰囲気も感じた。これでこの題の話は大体終わり。

 

 

ここから先はUSUMとしての話をするが、長くなると自分にとってよろしくないので手短に終わらせるが、まず前作のSMは"犯した罪"の贖罪としてルザミーネは(作中で)目覚めなかったオチになった気がする。それに対してUSUMは、様々な事をしてしまうのも人間が自身が生きる為にする事であり、(善悪の基準も人間が自身が生きる為に作った物であり)"贖罪"という概念は存在しなかった印象である。個々が自分に対して反省をするシーンは多い。

 

このSMとUSUMの関係、XYとORASに似てないだろうか…?確証は無い為ここで終わらせておく。

 

ところで、XYは"現在"の問題を表し、ORASという過去にその原点があるという構図に見えた。さらに拡大解釈をすれば、時間軸にしてORASは過去側なので、共存について考えるきっかけが出来ると同時に、XYでのフラダリのような選民思想や、それに対するフラダリの実質的4亡という擬似的な贖罪、AZへの実質的な贖罪、パキラを罪に問えないという、「人間の善悪の基準が絶対的でなく、また人間が作り出したものに過ぎないという事」を表すかのような描写が有る。勿論XYはそれだけがテーマでは無いが…

 

つまり、現在の問題を考える際に過去を振り返るという構図になっている。USUMはSMのリメイク的存在であり時代も全く同じなので、この2つにそのような関係性は無いが、単純にXYやORASと同じような構図ではあるだろう。

 

(ルザミーネの過去は普通の人間であり、モーンがいなくなるというトラウマによって変わった事を過去の振り返りとするならば、SMにもUSUMにもその要素があると言えるだろう。SMでウツロイドの影響だと思われていた奇行がUSUMでは素の問題だったという構図になったのは、もしかすればルザミーネの奇行の裏にある深い過去への強調だったのかもしれない)

 

しかしそこで話は終わらない。現在起こっている問題の原点や正体が過去にある、という構図は、USUMに一つ大きく存在する。ウルトラビルディングの存在である。

 

ウルトラビルディングという"未来"に対する過去は現在である。未来に起きるであろう問題に対し、その原点が現在に存在する。今という時間は未来にとっての過去なのである。果たしてそれは、起こりうる未来の一つでありそれを知れたなら変えられる物として描いたのか、絶対に起こる未来であり変えられない物として描いたのか…

 

XYを振り返ると、AZは自分のポケモンが犠牲になる事に耐えられなくなり、最終兵器を使ってポケモンの命を犠牲にして蘇らせた。タブーに触れる事、共存から外れた行為をする事、それらに対して天罰のような物が彼に降りかかる… 実際は彼がしてきた事が自然の事として帰ってきているのだが… 自分が強いた価値観に自分が縛られるように…

 

そうした彼の名前を改めて振り返ると、AZである。人が生きる為にする様々な事が返ってくるこの悲劇は、ウルトラビルディングを見ると誰もがその輪廻に"最後まで"逃れられなかった事を示していると思うと、AZの名前が示す所は、人類の運命のような物なのかも知れない。

 

 

ホロキャスターのような技術は絶対に作る事が出来ないと思っていたがフラダリは作った。しかしこの運命は、技術の行き着く先では無く、起こりうる運命そのものなので、それを変える事は技術の「不可能」とはまた違う絶対的な「不可能」に見える。

 

プラターヌ博士はそれに直面する際、何を思うのだろうか…

 

 

 

 

 

 

エピデル好きなのでポケマスEXのホウエン編のエピソードを深く知りたい

ピデルが本当に好きなので、固定ツイートにエピデルについての考察やら感想やら怪文書紛いな物を載せていた自分ですが、7月末から突然ホウエン編がやってきて未だに感情が追いついてなく、フワフワしてる最中でしたが、ホウエン編をたった今見て、ジョウト編でジョウトのファンが味わったように、自身の好きな作品が昇華され〆を迎えた事に、満足して成仏しました(完)

 

既に自分の文章が全然まとまらないですが、取り敢えずこの勢いのまま感想や考察を書き殴ります ついでに自分の過去に書いた記事を一人で思い返したりします

 

後で自分の日本語の更なる雑さに呆然としそうな予感がします 多分滅茶苦茶長いし滅茶苦茶読みにくいです(予防線)

 

また、下記の文章は全て正確な根拠に欠ける個人の稚拙な推測や予想に過ぎません

 

 

1.エピデルについての今までの予想

 

過去の自分のエピデルについての予想を超絶大雑把にまとめると、自分は要するにこのエピソードを、例えばアオギリマツブサもヒガナもダイゴも(フラダリも)、その他全ての人間や生き物は、その全ての目的は自分が生きる事でありその為に行動しており(以下、「自分の為の行動」と書く事がしばしば)、真の共存は、少なくともそれを唱えてる人はそれを実感できていない、という、ある種の諦めでもあり達観でもあり事実でもある話を描写したと思っています

 

(自分はXYでは人が作りし善悪の基準への疑問を描いたと思っており、仮にそれが事実ならORASと対照的であり、またテーマの補完として完璧になるので、という話もありますがここら辺は根拠薄い予想なので割愛)

 

ヒガナについての予想を書くと、⤵︎

 

ヒガナは幼いながら様々な重圧を受けて、また本人の持ち前の性格もあり、「自身が(高潔な)流星の民であり、真の共存を目指す存在であるのに対し、自身以外の(愚かな)人間は3000年前と変わらず愚かな策を使って、共存の為に動いていると思い込みながら自分の事しか考えていない」という、真の優越感を得られるという幻想に、すがれたのですがり、ダイゴ達を傷つけましたがヒガナのその実態は、いきなり他人のメガストーンを勝手に盗み、レックウザと正面から心で向き合おうとはせず、自身もまた「共存」を自分の為に持ち出しただけの存在である事を、その身勝手さがボロを出し、身勝手である事を気づかせるように、レックウザメガシンカに隕石が足りない、という現実が待ち受けていました。

 

結局主人公が偶然持っていた隕石が解決の糸口であり、レックウザが主人公のような特異的な存在を選んだのは、そのような奇跡が起きない限り共存し続けるというのは不可能というメッセージなのかはさておき、事件が解決して、それはヒガナにとってただ喜ばしい筈の話だったが、ヒガナが欲していたのはそれで得られるある種の優越感のようなものである為(ここは推測)、様々な思いもあって(自責の念、恥ずかしさ等?)静かに去りました。

 

重圧や孤独からの、ある種の逃避としての一連の行動はこのように終わり、流星の民の末裔である婆さんは、ヒガナがその重圧から解放されて自由に生きる事を望んでる事が後日談で分かります。

 

ヒガナが断罪されない事に当時プレイヤーからのツッコミはありましたが、誰しもが本質では自分が生きる為に行動しており、そもそも罪という概念を生む善悪の基準自体がそうした人間の行動の行き先の一つとして生まれただけの虚であり(XYはそれを描いていたのかも?)、断罪を敢えて描かない事で完成されると言っても良いでしょう

 

アオギリマツブサは、おそらく過去に見た美しく尊いと思った自然を守る為に動いたのでしょう。ただ、元を辿っていけば自らの生存といった話になるでしょう(根拠を語っても良いが冗長になりそうなので省略 簡潔に言えば、それを守っている自分が尊く素晴らしい、という幻想にすがる…的な)

 

本質はヒガナと同じであると同時に、ヒガナのエピソードであるエピデルが暴いた本質の中に彼らが入っている、といった感じだろう。

 

それに限らずORASは、RSEのテーマから、共存というテーマを軸にして作り直したような作品であり、共存という概念の真実を、ホウエン地方を通じてエピデルで語ったと(自分は)思っており、エピデル以外にもその要素は有る(シーキンセツ・売れ残ったご当地ヒーロー等)。

 

後述でも語る、わざわざORASで大幅改変されたカガリやウシオの特徴はは、リーダーに対するある種の信仰心であり、その本質はリーダーの「自然」に対するそれや、精神が辛くなったヒガナのすがり先である前述の幻想に対するそれと同じだろう。原作の時点でそれを表していたのかもしれない…

 

2. これらの自分の予想を踏まえた今作の要素への予想

 

今作のポケマスEXのエピソードがORASという作品を素晴らしく昇華させたという話をする前に、このエピソードがどのような物だったかを確認する為に複数の要素を、箇条書きに感想も交えながら予想する。

 

①ヒガナが今は皆に理解を示され、支えられている

 

(この項目は漠然としてるので長くなりそう)

 

ヒガナは前述の通り、恐らく周りからの重圧や孤独が苦しくなり、ある種の幻想に縋ったが、元はと言えばその重圧を生む要因は、何かの末裔だから、というような冷たい目線を生む、人の身勝手な感情、つまり本質は人が自身が生きる為に生まれる物だろう。

 

そもそも姉が行方不明になるという事故も孤独の要因の一つだが、それはここではさておき、そうした目線という、共生とは真反対の存在に苦しめられていた過去とは違い、ダイゴ達と同じようにヒガナが真剣に考えていたという事を周りから認識され、受け入れているというシーンが随所にある。

 

真の共生への一歩を踏み出した事を表しているシーンだろう

 

該当のシーンは、ユウキやハルカが、ヒガナの心を聴かなくてもやりたい事を分かっているシーンや、ダイゴのヒガナに対する焚き付けのシーンだろう

 

前者は説明省略するとして、後者に関しては、まずダイゴがヒガナに「できる できないじゃなく それしか 方法が無いんだ」と言うシーン

 

様々な要素があると思われるこのシーンだが、まずこのセリフは一見、ヒガナへの過去の重圧のようなセリフだが、ヒガナの「肝心な事は他人に任せっきりなんだから(意訳)」というセリフに対する「任せっきりじゃない これは勝負だ(意訳)」という返しから察せられるように、

 

ヒガナが新たに使命を背負おうとしている姿勢を応援する為にダイゴが敢えて「それしか 方法が無いんだ」という現実を突きつけて、その上で勝負という形を取る事で、「もう誰かから使命を押し付けられる孤独は無く、共存を目指すという考えを受け入れてる存在がいる」という事を表していると言える

 

(正直飛躍理論ではあるが、例えばダイゴの「任せっきりじゃない これは勝負だ」というセリフが、面倒な役目を押し付ける為の口実として用いられているのならば、必ずダイゴへのツッコミがどこかで出てくる筈なので、その線は無く、残った線で整合性が取れるのは大体上記の予想だと考えた)

 

総じてヒガナの事を、原作を経て皆と同じく共存を目指した存在である事を受け入れる事で、原作のテーマである「共存」を目指す方向にストーリーが進んでいると思われます

 

また、ヒガナが孤高の存在として生き続ける事をも周りが受け入れており、ヒガナ自身もその道で進み続ける事を選んでいるのも、自然な原作の延長線上と言えるでしょう

 

 

②ウシオ・カガリの話

 

いくらアオマツが過激自然愛好家に過ぎないとは言え、彼らの話は相当大きく描かれていた印象を覚えた。単なる舞台装置としての役目とするには明らかに存在感が大きく、ここにも意味があると思われる

 

上記で語った部分もある為シンプルに予想を書くと、この二人はボスへの信仰心で動いており、その信仰という形は上述の通りアオマツ等と同じであり、ボスへの侵攻の為に動くという、他の動機からすると単純な話に見えがちだが、実態が他キャラ達と同じである事を考えると、彼らのシーンは重要なシーンの一つ考えられる。

 

彼ら二人はボスに気に入られたい・ボスの思想を全うしたいという気持ちで動いているが、何度も書いて恐縮だがその実態は他と同じく「自分の為」であり、それが満たされない焦燥につけ込んだロケット団の装置(?)等は、アオマツから見るグラカイのような壮大なパワーを持つ自然、ヒガナから見る上述の「幻想」と言えるだろう。

 

要するに二人は焦った心につけ込まれて暴走したという話だが、話を進めると、ここでアオマツがポケモンを倒されても「全てを受け入れるように」立ち向かったり、騒動後に"様々な事情"を加味されて、お咎めなしとは言わずとも逮捕に至らず、それにユウヒカが安堵するシーンは、(善悪の基準もまた人の勝手な心の集合体の求める先である事を指してるかはさておき)人と人との相互理解、もとい「共存」のあり方を示すシーンであり、ウシオとカガリの一連の話こそが共存を描いたと言えるだろう。

 

④アオマツのその後

 

ここは短くなるが、アオマツは騒動後、「自然の脅威や世界的な危機の前では陸や海といった争いは小さなものに過ぎない」と言ったが、その実態は、

 

「自分の為」に陸や海のどちらかが素晴らしいのかと争ったり、その過程で共存・共生を謳った所で、それは大元を辿れば「自分の為」の行動でしか無く、本当の共存・共生の話からすれば、勝手にそれに信仰心を抱いてるだけの層が、共存とは真反対に「自分の為」に行動する層が互いに分かれて争ってるだけの、ちっぽけですら無い存在である事に気づいた、と言えるだろう(ここも飛躍理論だとは思うが、概ね正しいとは思う。実際のところは勿論性格には分かりかねる)。

 

ヒガナがかつて掲げていた使命に改めて向き合ったのと同じように、アオマツもまた同様に改めて向き合い、全員が時間と共に成長したのである。

 

ここでアオマツがポケモンを倒されて無力になった自身を嘆くシーンやそれを諭す部下のシーンがあるが、これは、ヒガナが過去に重圧に苦しめられて自分に自信が無くなって焦った事(予想)や、ウシオやカガリのそれと同じように、自分自身の存在感の薄れに焦りを抱いていたのでしょう。

 

しかし、それはあくまで「自分の為」に生まれる感情であり、彼らの目的として掲げた、真の共存である「事態の沈静化」には不必要である事を部下に指摘されて収まる。

 

改めて言うがこの「焦り」はまさしくウシオやカガリのそれと同じであり、何回も前述で書いた、「自分の為」の行動だろう。それを冷静に指摘される事で、事態の全体を見て、自身の実態により気づけたと言える。

 

⑤ヒガナのレックウザメガシンカ

 

ここも短くなるが、そもそもメガシンカ出来るかどうかは隕石の有無で決まるものの、原作では大義名分掲げながら実際は身勝手に動いた結果を表すかのように、隕石の欠如という現実を叩きつけられたが、今回は隕石もある上、メガレックウザとして受け入れられることは、完璧に共存・共生の為に動いている事までは、恐らく差さないと思われる(ダイゴが完璧な人間として描かれてないがメガシンカは出来る為)。

 

正確に言うならば、恐らく共存・共生に向けての第一歩を進もうとしており、その覚悟がある(ような)者にメガレックウザとして向き合うのだろう(原作ヒガナにはそれが無かったと思われる)。

 

メガシンカしなさいよ! レックウザ!!」のシーンは、原作再現のサービスであると同時に、ヒガナらしくレックウザに対等かつしっかりと向き合った故のセリフでしょう。

 

また、「私たちは孤高のバディーズだが、ひとりぼっちじゃない(意訳)」というヒガナのセリフは、過去(原作)に一人ぼっちで泣いていた夜の事を語っていた事を加味すると、周りの環境が変わった事を示していると思われる。

 

(普通はヒガナのように挫折を味わったら、そこからそこに向き合う成長は中々難しいのです。そこがヒガナの凄さでしょう)

 

⑥共通の敵

 

共存・共生の第一歩を踏み出したとはいえ、自分は複数回、それらを掲げた行動も何も全て人間の「自身の為」の行動に過ぎないと言った方が、この共存や結束が守られるのは共通の敵という存在が有る事で成り立っているようなシーンがあったが、そもそも敵や悪といった概念が、前述の通り人間の「自身の為」の行動欲求の集合体の行き先である事を考えると、今生まれている共存・共生の実態を表しているのかもしれない。仮に「共通の敵」という存在が持ち出されたのがそうした意図があるなら、尚更テーマへの向き合い方が凄まじいと思わされます。

 

(ここはそうした意図があるという話も含めて、我ながら特に飛躍した理論だが、わざわざ「共通の敵」という言葉を出した事が良い意味で引っかかりました。)

 

デオキシス

 

原作では単なる無機質の脅威でしか無かった隕石の中にデオキシスがいる訳だが、原作ではこの隕石を壊すのが共存につながった訳だが、真の共存を目指す為にはその中身であるデオキシスと向き合わなければならないが、しっかりダイゴは向き合おうとした。

 

(あくまで原作での)目的の為にレックウザを一方的に使役しようとしたヒガナとの対比になっているのだろう。

 

 

これら全てを踏まえると、今回のポケマスEXのエピソードは、

 

アオマツは去年六月のエピソードで、それ以外のキャラは原作を踏まえて、共存という概念に理解を示し、その中で改めて使命を持とうとしたヒガナに対し、ダイゴやユウハルが彼女の心に理解を示し受け入れ、彼女を支え、彼女も成長しレックウザがそれに応え使命を全うし、ダイゴもまた自分の使命を全うし終え、この一連のイベントの中で原作の「共存」という概念を、原作の延長として描いた、そんな作品だったと思う(共通の敵、という持ち出された概念が、キャラ達が結びつけられてる相互理解・共存といった概念の現実を表しているのかは、自分は判断しかねる)。

 

これは感想になるが、相互理解といった描写をするにあたって、各キャラクター達のコミュニケーション(主にヒガナ・ダイゴ)や、描く事を出すにあたってのキャラクターのイベントのクオリティがとにかく高い印象を覚えた。

 

原作の延長として、あまりに過不足なく完璧だったんじゃないかとさえ思った所存である。

 

3.感想

 

ブログでこんな改まって感想書く奴はいねーよ!とは思うが、書くタイミング失ったのでここでまとめて書く。

 

とは言ったものの、前述の予想の時点で感想的なものは概ね書いてるし、まだ頭がフワフワしてるので、まだあまり書けません() 追記したくなったらします 以下感想

 

①とにかくユウハルやダイゴ達とヒガナとのコミュニケーションが最高だった!

 

ヒガナの何とも気難しくも、少し繊細な部分もあるあの感じ、ユウハルもダイゴも全てを受け入れて信頼して喋っているあのワンシーンが好きです。

 

全体を通して特に心揺さぶられたのはダイゴのシーンですね シルバーに対するヒビキ、アカギに対する幹部3人のような支え方に、俺は非常に弱い(唐突な告白)。

 

これ以外にも特出して感想として書きたくなったら追加します 展開に対する予想も感想の一種みたいな所あるから、既に結構感想書いちゃってるとも言える()

 

4.余談

 

余談です 

 

・ダイゴがヒガナに「出来る 出来ないではなく やるしか無いんだ」というセリフ、意図は前述の予想の他に、ダイゴ側は意識してないが、時空転送装置が「やるしか無い」方法であった事を踏まえると、原作での時空転送装置もメガレックウザの呼び出しも、根本は同じという話が、ひょっとしたら暗に入っているのかもしれない…

 

・時空転送装置関連で言うと、今回の隕石は「わざわざ」軌道が突然変えられてパシオに来た事を考えると、寧ろこれは詳しい説明は不要だろう。エピデルでの時空転送装置によって生まれる、限りなく可能性の低い犠牲の当事者になりかけたのである。

 

もっとも、その可能性が0じゃ無かったとして、意気揚々と非難したヒガナも同じような存在だった、というのが原作の要素ではある(この記事内で無限に書いた)。

 

・アオマツの「世界的な危機の前では我々は無力(意訳)」というセリフに少しビビった

 

偶然ではありますが、最近の現実は世界で危機のようなものが多いですからね…

 

・ダイゴはヒガナに対して、ヒガナを支える意味で「勝負」の形にした、と自分は思うが実際本当に勝負したかったのもあると思う

 

だからこそ尊く熱く深いのかもしれません

 

・ダイゴのBGMカッコよすぎる

 

普段のあのBGMは普通に戦う時の戦闘BGMとしてデザインされてそうな事も同時に分かる

 

・ヒガナの「ひとりぼっちじゃない」

 

映画ラティの主題歌を思い出しましたが流石に関係は無いでしょう あったりして

 

5.終わりに

 

自分としてはエピデルの終わり方こそがORASの終わり方として素晴らしいと思ってた為、追加エピソードがあるとしてどうなるのか、テーマ自体は描ききってると思うのでどう描かれるのか予想出来ない、という意味でフワフワしてましたが(?)、原作にそったテーマの延長戦や、テーマである「共存」を表す、ヒガナとその他キャラとの相互理解のシーン、そして成長

 

原作での描かれたテーマや題材に対する昇華のさせ方や、相互理解というテーマよろしく、掛け合いの尊さや素晴らしさに、自分は成仏しました

 

テーマの掘り下げ方としては、原作の性質上は後日談に近いものにはなりますが、その中での原作の要素の表し方が良かった〜という感じですね

 

 

最高でした…!俺の文纏まってないけど()