ドサイドン@こだわりハチマキ

ここは ただの びぼうろく

エピデル好きなのでポケマスEXのホウエン編のエピソードを深く知りたい

ピデルが本当に好きなので、固定ツイートにエピデルについての考察やら感想やら怪文書紛いな物を載せていた自分ですが、7月末から突然ホウエン編がやってきて未だに感情が追いついてなく、フワフワしてる最中でしたが、ホウエン編をたった今見て、ジョウト編でジョウトのファンが味わったように、自身の好きな作品が昇華され〆を迎えた事に、満足して成仏しました(完)

 

既に自分の文章が全然まとまらないですが、取り敢えずこの勢いのまま感想や考察を書き殴ります ついでに自分の過去に書いた記事を一人で思い返したりします

 

後で自分の日本語の更なる雑さに呆然としそうな予感がします 多分滅茶苦茶長いし滅茶苦茶読みにくいです(予防線)

 

また、下記の文章は全て正確な根拠に欠ける個人の稚拙な推測や予想に過ぎません

 

 

1.エピデルについての今までの予想

 

過去の自分のエピデルについての予想を超絶大雑把にまとめると、自分は要するにこのエピソードを、例えばアオギリマツブサもヒガナもダイゴも(フラダリも)、その他全ての人間や生き物は、その全ての目的は自分が生きる事でありその為に行動しており(以下、「自分の為の行動」と書く事がしばしば)、真の共存は、少なくともそれを唱えてる人はそれを実感できていない、という、ある種の諦めでもあり達観でもあり事実でもある話を描写したと思っています

 

(自分はXYでは人が作りし善悪の基準への疑問を描いたと思っており、仮にそれが事実ならORASと対照的であり、またテーマの補完として完璧になるので、という話もありますがここら辺は根拠薄い予想なので割愛)

 

ヒガナについての予想を書くと、⤵︎

 

ヒガナは幼いながら様々な重圧を受けて、また本人の持ち前の性格もあり、「自身が(高潔な)流星の民であり、真の共存を目指す存在であるのに対し、自身以外の(愚かな)人間は3000年前と変わらず愚かな策を使って、共存の為に動いていると思い込みながら自分の事しか考えていない」という、真の優越感を得られるという幻想に、すがれたのですがり、ダイゴ達を傷つけましたがヒガナのその実態は、いきなり他人のメガストーンを勝手に盗み、レックウザと正面から心で向き合おうとはせず、自身もまた「共存」を自分の為に持ち出しただけの存在である事を、その身勝手さがボロを出し、身勝手である事を気づかせるように、レックウザメガシンカに隕石が足りない、という現実が待ち受けていました。

 

結局主人公が偶然持っていた隕石が解決の糸口であり、レックウザが主人公のような特異的な存在を選んだのは、そのような奇跡が起きない限り共存し続けるというのは不可能というメッセージなのかはさておき、事件が解決して、それはヒガナにとってただ喜ばしい筈の話だったが、ヒガナが欲していたのはそれで得られるある種の優越感のようなものである為(ここは推測)、様々な思いもあって(自責の念、恥ずかしさ等?)静かに去りました。

 

重圧や孤独からの、ある種の逃避としての一連の行動はこのように終わり、流星の民の末裔である婆さんは、ヒガナがその重圧から解放されて自由に生きる事を望んでる事が後日談で分かります。

 

ヒガナが断罪されない事に当時プレイヤーからのツッコミはありましたが、誰しもが本質では自分が生きる為に行動しており、そもそも罪という概念を生む善悪の基準自体がそうした人間の行動の行き先の一つとして生まれただけの虚であり(XYはそれを描いていたのかも?)、断罪を敢えて描かない事で完成されると言っても良いでしょう

 

アオギリマツブサは、おそらく過去に見た美しく尊いと思った自然を守る為に動いたのでしょう。ただ、元を辿っていけば自らの生存といった話になるでしょう(根拠を語っても良いが冗長になりそうなので省略 簡潔に言えば、それを守っている自分が尊く素晴らしい、という幻想にすがる…的な)

 

本質はヒガナと同じであると同時に、ヒガナのエピソードであるエピデルが暴いた本質の中に彼らが入っている、といった感じだろう。

 

それに限らずORASは、RSEのテーマから、共存というテーマを軸にして作り直したような作品であり、共存という概念の真実を、ホウエン地方を通じてエピデルで語ったと(自分は)思っており、エピデル以外にもその要素は有る(シーキンセツ・売れ残ったご当地ヒーロー等)。

 

後述でも語る、わざわざORASで大幅改変されたカガリやウシオの特徴はは、リーダーに対するある種の信仰心であり、その本質はリーダーの「自然」に対するそれや、精神が辛くなったヒガナのすがり先である前述の幻想に対するそれと同じだろう。原作の時点でそれを表していたのかもしれない…

 

2. これらの自分の予想を踏まえた今作の要素への予想

 

今作のポケマスEXのエピソードがORASという作品を素晴らしく昇華させたという話をする前に、このエピソードがどのような物だったかを確認する為に複数の要素を、箇条書きに感想も交えながら予想する。

 

①ヒガナが今は皆に理解を示され、支えられている

 

(この項目は漠然としてるので長くなりそう)

 

ヒガナは前述の通り、恐らく周りからの重圧や孤独が苦しくなり、ある種の幻想に縋ったが、元はと言えばその重圧を生む要因は、何かの末裔だから、というような冷たい目線を生む、人の身勝手な感情、つまり本質は人が自身が生きる為に生まれる物だろう。

 

そもそも姉が行方不明になるという事故も孤独の要因の一つだが、それはここではさておき、そうした目線という、共生とは真反対の存在に苦しめられていた過去とは違い、ダイゴ達と同じようにヒガナが真剣に考えていたという事を周りから認識され、受け入れているというシーンが随所にある。

 

真の共生への一歩を踏み出した事を表しているシーンだろう

 

該当のシーンは、ユウキやハルカが、ヒガナの心を聴かなくてもやりたい事を分かっているシーンや、ダイゴのヒガナに対する焚き付けのシーンだろう

 

前者は説明省略するとして、後者に関しては、まずダイゴがヒガナに「できる できないじゃなく それしか 方法が無いんだ」と言うシーン

 

様々な要素があると思われるこのシーンだが、まずこのセリフは一見、ヒガナへの過去の重圧のようなセリフだが、ヒガナの「肝心な事は他人に任せっきりなんだから(意訳)」というセリフに対する「任せっきりじゃない これは勝負だ(意訳)」という返しから察せられるように、

 

ヒガナが新たに使命を背負おうとしている姿勢を応援する為にダイゴが敢えて「それしか 方法が無いんだ」という現実を突きつけて、その上で勝負という形を取る事で、「もう誰かから使命を押し付けられる孤独は無く、共存を目指すという考えを受け入れてる存在がいる」という事を表していると言える

 

(正直飛躍理論ではあるが、例えばダイゴの「任せっきりじゃない これは勝負だ」というセリフが、面倒な役目を押し付ける為の口実として用いられているのならば、必ずダイゴへのツッコミがどこかで出てくる筈なので、その線は無く、残った線で整合性が取れるのは大体上記の予想だと考えた)

 

総じてヒガナの事を、原作を経て皆と同じく共存を目指した存在である事を受け入れる事で、原作のテーマである「共存」を目指す方向にストーリーが進んでいると思われます

 

また、ヒガナが孤高の存在として生き続ける事をも周りが受け入れており、ヒガナ自身もその道で進み続ける事を選んでいるのも、自然な原作の延長線上と言えるでしょう

 

 

②ウシオ・カガリの話

 

いくらアオマツが過激自然愛好家に過ぎないとは言え、彼らの話は相当大きく描かれていた印象を覚えた。単なる舞台装置としての役目とするには明らかに存在感が大きく、ここにも意味があると思われる

 

上記で語った部分もある為シンプルに予想を書くと、この二人はボスへの信仰心で動いており、その信仰という形は上述の通りアオマツ等と同じであり、ボスへの侵攻の為に動くという、他の動機からすると単純な話に見えがちだが、実態が他キャラ達と同じである事を考えると、彼らのシーンは重要なシーンの一つ考えられる。

 

彼ら二人はボスに気に入られたい・ボスの思想を全うしたいという気持ちで動いているが、何度も書いて恐縮だがその実態は他と同じく「自分の為」であり、それが満たされない焦燥につけ込んだロケット団の装置(?)等は、アオマツから見るグラカイのような壮大なパワーを持つ自然、ヒガナから見る上述の「幻想」と言えるだろう。

 

要するに二人は焦った心につけ込まれて暴走したという話だが、話を進めると、ここでアオマツがポケモンを倒されても「全てを受け入れるように」立ち向かったり、騒動後に"様々な事情"を加味されて、お咎めなしとは言わずとも逮捕に至らず、それにユウヒカが安堵するシーンは、(善悪の基準もまた人の勝手な心の集合体の求める先である事を指してるかはさておき)人と人との相互理解、もとい「共存」のあり方を示すシーンであり、ウシオとカガリの一連の話こそが共存を描いたと言えるだろう。

 

④アオマツのその後

 

ここは短くなるが、アオマツは騒動後、「自然の脅威や世界的な危機の前では陸や海といった争いは小さなものに過ぎない」と言ったが、その実態は、

 

「自分の為」に陸や海のどちらかが素晴らしいのかと争ったり、その過程で共存・共生を謳った所で、それは大元を辿れば「自分の為」の行動でしか無く、本当の共存・共生の話からすれば、勝手にそれに信仰心を抱いてるだけの層が、共存とは真反対に「自分の為」に行動する層が互いに分かれて争ってるだけの、ちっぽけですら無い存在である事に気づいた、と言えるだろう(ここも飛躍理論だとは思うが、概ね正しいとは思う。実際のところは勿論性格には分かりかねる)。

 

ヒガナがかつて掲げていた使命に改めて向き合ったのと同じように、アオマツもまた同様に改めて向き合い、全員が時間と共に成長したのである。

 

ここでアオマツがポケモンを倒されて無力になった自身を嘆くシーンやそれを諭す部下のシーンがあるが、これは、ヒガナが過去に重圧に苦しめられて自分に自信が無くなって焦った事(予想)や、ウシオやカガリのそれと同じように、自分自身の存在感の薄れに焦りを抱いていたのでしょう。

 

しかし、それはあくまで「自分の為」に生まれる感情であり、彼らの目的として掲げた、真の共存である「事態の沈静化」には不必要である事を部下に指摘されて収まる。

 

改めて言うがこの「焦り」はまさしくウシオやカガリのそれと同じであり、何回も前述で書いた、「自分の為」の行動だろう。それを冷静に指摘される事で、事態の全体を見て、自身の実態により気づけたと言える。

 

⑤ヒガナのレックウザメガシンカ

 

ここも短くなるが、そもそもメガシンカ出来るかどうかは隕石の有無で決まるものの、原作では大義名分掲げながら実際は身勝手に動いた結果を表すかのように、隕石の欠如という現実を叩きつけられたが、今回は隕石もある上、メガレックウザとして受け入れられることは、完璧に共存・共生の為に動いている事までは、恐らく差さないと思われる(ダイゴが完璧な人間として描かれてないがメガシンカは出来る為)。

 

正確に言うならば、恐らく共存・共生に向けての第一歩を進もうとしており、その覚悟がある(ような)者にメガレックウザとして向き合うのだろう(原作ヒガナにはそれが無かったと思われる)。

 

メガシンカしなさいよ! レックウザ!!」のシーンは、原作再現のサービスであると同時に、ヒガナらしくレックウザに対等かつしっかりと向き合った故のセリフでしょう。

 

また、「私たちは孤高のバディーズだが、ひとりぼっちじゃない(意訳)」というヒガナのセリフは、過去(原作)に一人ぼっちで泣いていた夜の事を語っていた事を加味すると、周りの環境が変わった事を示していると思われる。

 

(普通はヒガナのように挫折を味わったら、そこからそこに向き合う成長は中々難しいのです。そこがヒガナの凄さでしょう)

 

⑥共通の敵

 

共存・共生の第一歩を踏み出したとはいえ、自分は複数回、それらを掲げた行動も何も全て人間の「自身の為」の行動に過ぎないと言った方が、この共存や結束が守られるのは共通の敵という存在が有る事で成り立っているようなシーンがあったが、そもそも敵や悪といった概念が、前述の通り人間の「自身の為」の行動欲求の集合体の行き先である事を考えると、今生まれている共存・共生の実態を表しているのかもしれない。仮に「共通の敵」という存在が持ち出されたのがそうした意図があるなら、尚更テーマへの向き合い方が凄まじいと思わされます。

 

(ここはそうした意図があるという話も含めて、我ながら特に飛躍した理論だが、わざわざ「共通の敵」という言葉を出した事が良い意味で引っかかりました。)

 

デオキシス

 

原作では単なる無機質の脅威でしか無かった隕石の中にデオキシスがいる訳だが、原作ではこの隕石を壊すのが共存につながった訳だが、真の共存を目指す為にはその中身であるデオキシスと向き合わなければならないが、しっかりダイゴは向き合おうとした。

 

(あくまで原作での)目的の為にレックウザを一方的に使役しようとしたヒガナとの対比になっているのだろう。

 

 

これら全てを踏まえると、今回のポケマスEXのエピソードは、

 

アオマツは去年六月のエピソードで、それ以外のキャラは原作を踏まえて、共存という概念に理解を示し、その中で改めて使命を持とうとしたヒガナに対し、ダイゴやユウハルが彼女の心に理解を示し受け入れ、彼女を支え、彼女も成長しレックウザがそれに応え使命を全うし、ダイゴもまた自分の使命を全うし終え、この一連のイベントの中で原作の「共存」という概念を、原作の延長として描いた、そんな作品だったと思う(共通の敵、という持ち出された概念が、キャラ達が結びつけられてる相互理解・共存といった概念の現実を表しているのかは、自分は判断しかねる)。

 

これは感想になるが、相互理解といった描写をするにあたって、各キャラクター達のコミュニケーション(主にヒガナ・ダイゴ)や、描く事を出すにあたってのキャラクターのイベントのクオリティがとにかく高い印象を覚えた。

 

原作の延長として、あまりに過不足なく完璧だったんじゃないかとさえ思った所存である。

 

3.感想

 

ブログでこんな改まって感想書く奴はいねーよ!とは思うが、書くタイミング失ったのでここでまとめて書く。

 

とは言ったものの、前述の予想の時点で感想的なものは概ね書いてるし、まだ頭がフワフワしてるので、まだあまり書けません() 追記したくなったらします 以下感想

 

①とにかくユウハルやダイゴ達とヒガナとのコミュニケーションが最高だった!

 

ヒガナの何とも気難しくも、少し繊細な部分もあるあの感じ、ユウハルもダイゴも全てを受け入れて信頼して喋っているあのワンシーンが好きです。

 

全体を通して特に心揺さぶられたのはダイゴのシーンですね シルバーに対するヒビキ、アカギに対する幹部3人のような支え方に、俺は非常に弱い(唐突な告白)。

 

これ以外にも特出して感想として書きたくなったら追加します 展開に対する予想も感想の一種みたいな所あるから、既に結構感想書いちゃってるとも言える()

 

4.余談

 

余談です 

 

・ダイゴがヒガナに「出来る 出来ないではなく やるしか無いんだ」というセリフ、意図は前述の予想の他に、ダイゴ側は意識してないが、時空転送装置が「やるしか無い」方法であった事を踏まえると、原作での時空転送装置もメガレックウザの呼び出しも、根本は同じという話が、ひょっとしたら暗に入っているのかもしれない…

 

・時空転送装置関連で言うと、今回の隕石は「わざわざ」軌道が突然変えられてパシオに来た事を考えると、寧ろこれは詳しい説明は不要だろう。エピデルでの時空転送装置によって生まれる、限りなく可能性の低い犠牲の当事者になりかけたのである。

 

もっとも、その可能性が0じゃ無かったとして、意気揚々と非難したヒガナも同じような存在だった、というのが原作の要素ではある(この記事内で無限に書いた)。

 

・アオマツの「世界的な危機の前では我々は無力(意訳)」というセリフに少しビビった

 

偶然ではありますが、最近の現実は世界で危機のようなものが多いですからね…

 

・ダイゴはヒガナに対して、ヒガナを支える意味で「勝負」の形にした、と自分は思うが実際本当に勝負したかったのもあると思う

 

だからこそ尊く熱く深いのかもしれません

 

・ダイゴのBGMカッコよすぎる

 

普段のあのBGMは普通に戦う時の戦闘BGMとしてデザインされてそうな事も同時に分かる

 

・ヒガナの「ひとりぼっちじゃない」

 

映画ラティの主題歌を思い出しましたが流石に関係は無いでしょう あったりして

 

5.終わりに

 

自分としてはエピデルの終わり方こそがORASの終わり方として素晴らしいと思ってた為、追加エピソードがあるとしてどうなるのか、テーマ自体は描ききってると思うのでどう描かれるのか予想出来ない、という意味でフワフワしてましたが(?)、原作にそったテーマの延長戦や、テーマである「共存」を表す、ヒガナとその他キャラとの相互理解のシーン、そして成長

 

原作での描かれたテーマや題材に対する昇華のさせ方や、相互理解というテーマよろしく、掛け合いの尊さや素晴らしさに、自分は成仏しました

 

テーマの掘り下げ方としては、原作の性質上は後日談に近いものにはなりますが、その中での原作の要素の表し方が良かった〜という感じですね

 

 

最高でした…!俺の文纏まってないけど()