ドサイドン@こだわりハチマキ

ここは ただの びぼうろく

SM・USUMはXYやORASと関係があるのだろうか

小話です

 

相変わらず自分の日本語が終了しています…また、文中に所々断定表現がありますが、全て例外なく筆者の根拠不十分の推測に過ぎません

 

いつも以上に日本語が終了している為、もし見かけてしまったら、個人の備忘録だと思ってください。

 

↓以下記事↓

 

ポケモン本編作品であるSM・USUM(以下USUM)は、同じ3DS作品であるXYやORASが何かと接点の多い作品であると思っているが、その一方でUSUMは独立した新しい作品と片づけていたが、果たしてそれは本当なのだろうか?と少し考えたくなった為、雑に書こうと決めた。先に結論を少し書いておくと、恐らく接点は深く有る、と予想したら

 

以前から自分が思っている事として、XYとORASは二つで一つの作品、とまでは言わなくとも、テーマが二つで一つのように思わされるくらいには似通った作品だと思うのですが、では七世代の作品は、同じ3DS作品とはいえ独立した作品なのだろうか?

 

超大雑把に言ってXYやORASは、まず共通したテーマとして「共存」を挙げると、XYは人間が互いに生きる為にルールを作ったり等していくと、その「生きたい」という欲求が他人の生を阻害してしまい共存が難しくなったり、そもそもそのルールはそうした生の為に人間達が作ったものに過ぎなく、絶対的な正しさは存在しないということを(主に表ストーリー終了後に)描写されていた。

 

勿論XYが出したテーマはこれに限らないと思われるが、ここではあまり触れないでおく。

 

一方ORASでは、そもそも共存とは何か、について触れた。人間・ポケモン…ありとあらゆる生き物がそれぞれ自分の命を最優先し、その過程で「共存」を口にしたりそれに向き合う事があっても、根の部分は自身の命の為であり、結局共存は不可能に近い、というような話、と自分は予想した。(あくまで予想・推測)

 

ほんの少しこの2作品について語ると、XYは現実世界に即したようなエピソードで共存について語られており、その後にORASという、時間軸にしてXYの前のエピソードを描くこの構図は、まずXYで、特定の現実問題(勿論現代だからこそ存在する問題、というより単に現代において存在する問題、というだけ)に対するエピソードを描いて問題提起をし、ORASでその問題の原点、現実を描いて一つの締めを行う、そうした構図とも取れるだろう。同時に、ORASの一部キャラクターがXYでどのような結末を迎えるのか、想像を膨らませられるという一面もある。

 

総じてこの2作品は共存について徹底的に描いた作品と言えるだろう。

 

と言ったところで次回作のUSUMについて考える。

 

まず明らかに近代の都会の喧騒とは独立した自然豊かな地が舞台であり、その姿は表面上は生き物が互いに共存した地だと言えるだろう。

 

序盤から終盤まで人間とポケモンと自然が互いに密接に接しあって出来た文化が生成されており、やはり共存がされている地という印象を強く覚える。その為、少なくともXYやORASと接点が無いとは言い辛い。

 

また、この作品は表面上共存がされた作品というのも大体正しいとして先に進むのが良さそう。

 

その上で話を進めると、概ねこの作品は共存や相互理解といった部分が多く出ており、それはRR団編後のルザミーネザオボーへの理解もその一つだろう。

 

しかしそれで終わる作品では無い。共存がそもそも不可能というような話をした過去作を踏まえると、例えばデボンコーポレーションのように、共存ができているように見える場所は大体どこかに歪みがあるものである。具体的に言えば、誰かの命を得て地位を得て生を保っている。

 

踏み台になっている存在は、誰もが分かる通りスカル団である。物語序盤からイリマが完全無視を決めたり、その他大勢のキャラクターからは、嫌われているというよりナチュラルな差別を受けている。存在自体が許されないような物のように…

 

周りのキャラクター達の反応も特徴的である。ただ嫌うのではなく、知識や理知に価値を置く集団だからこそ、「存在してはいけないと思っているけど直接消すのはその理知にそぐわない」ような存在に対し、静かに関わらないようにする反応である。作品の時間軸自体は当時最新なだけに、差別の仕方も中々にリアルである。

 

しょっぴかずに居場所を設けるクチナシ、(エーテル財団の話は後で語るが)心理的な居場所を与えてくれる存在としてのルザミーネ。特にクチナシはそうした正義による差別を執行する側に見えるが、本質を察しているので居場所を設けるという「共存」の手段を取っている。

  

そして話はルザミーネに移る。過去のトラウマ的経験から、自分に必ず付いて離れない存在を求めるようになる。言わば共存とは正反対の欲求だろう。

 

その口実として、表ではポケモン保護活動を行なっており、サニーゴヒドイデという自然の現実、言い換えれば生の現実にも正面から向き合う、「表面上は明らかに正しい人間」という存在である。歳が想像出来ないくらい若かったり、そもそも容姿端麗だったり女性だったり…なんてことを自分が大声で言ったら現代だと叩かれそうだが、現実の社会的上位と見られてしまう存在のリアルを描いているように見える。

 

それと同時に、現代の「裏がある系統の人物」のリアルでもある。表面的に共存を目指す存在を演じる事で、自身の共存とは正反対の欲求を通す口実を作れるという…

 

 

その後ルザミーネは実態が暴かれる事になるが、自分の欲求が正当である口実を突きつける。しかしその後ネクロズマとの経験を見せられ、無理矢理かつ強引にソルガレオ(ルナアーラ)と融合しようとするようなネクロズマという存在を見て、自身の欲求の実態に改めて気づき、その後は自分に明白に敵意を向けて実害を出したザオボーに対しても、その実態や実情を見て追放処分はしない結末に至った…

 

後半は端折ったが、要するに共存という概念をチラつかせて、実際は共存とは正反対に自分を満たしてくれる道具のような存在として手に入れようとしていた存在である。勿論ルザミーネも悲しき過去の犠牲者なのだが…

 

共存を主にしたテーマというより、詐◯やDVの実態がテーマなんじゃないかと思わされるが、スカル団の描写等や、後述にする話を考えるとやはり共存がテーマと言えるだろう。

 

一旦一つの話を区切ると、ルザミーネと共存というのはどのような関係性なのだろうか

 

デボンコーポレーションのように、共存に近い存在はどこかで歪みが生じていたのと同じように、ルザミーネもまた共存という存在を求めていたのは自分の欲求があったから、という関係性だろう。大元の自分の邪心という行動欲求に反省をした今、エーテルパラダイスが今後どうなるのかは分からないが、書いてる途中に新代表がグラジオになったことを思い出した。わざわざ代表が変わったのはルザミーネの代表を務め活動をするモチベーションに反省をしたから、そのモチベーションが無くなった、という話なのかもしれない

 

そう考えるとやはり共存に近しい存在には、近しい分歪みがある、という関係性を維持していると思われる。

 

総じてXYやORASの価値観の復習のような物だろう。

 

余談だが、ルザミーネが主人公に「でも貴方も使えなくなったポケモンはボックスに入れるでしょう?(意訳)」といったセリフが当時話題を呼んだが、これはプレイヤー側の「共存できていない部分」だろう。

 

誰もが共存なと出来ておらず、ルザミーネ1人が間違っていて主人公が正しいという構図でも無い、ということを表しているのかもしれない。

 

 

 

本題はここからである。

 

話は端折るが、ウルトラビルディングを見る限り、アローラ地方、というかポケモンの世界は誰一人として住めない環境になり、人類は地球から逃げている。原因を見ると、どうやら観光業を盛んにさせ発電力を高くする為に火◯発電等に手を出したから、というのが一つの要因と思われる。実際は放射能が蔓延している為、原◯力発電に関係があるかもしれないがそもそもこれ戦争後のようにも見える。

 

発電方法というより、技術発展に伴う環境悪化が要因とされている。

 

結論から言ってウルトラビルディングの描写は、つまりアローラ地方は今はまだ技術は乏しい為皆が手を取り合って生きなければ生きられないが、この先技術革新に伴って互いが自分の欲のために強く動こうとして、全て破壊されてしまうという話だろう。

 

逆に言えばこれは共存とは何かをも表しているように見える。技術に乏しい段階では、互いの生が自分の生であるからこそ共存はするし、自分の生の為には社会的地位において下になる訳にはいかないから、ヒエラルキー的価値観が備わる中でスカル団という下の存在を蔑む、という、「共存は出来ていない」という相変わらずの現実をも見せている。

 

「出来る事が少ないから共存のような形を取れる」「そうは言っても根は共存ではなく自分の生を一番に優先させている為、ヒエラルキー的価値観を持ちその中で下の存在を蔑む」「技術的に出来る事が多くなると、自身の生をより良いものにする為に過激な方向に走っていき、最後は破滅する」

 

これらは全て生き物と共存という関係性のリアルである。

 

総じてUSUMは、側から見て明らかに共存出来ているアローラ地方であっても実際はXYやORASで描かれた話と同じような輪廻の中にいる一つであるという話と、このままいけば未来がマズイ事になり、USUMストーリー完結時点ではその兆しが見える、また、USUMは技術が発展途上な為に共存という形をとっているように見えるだけで、実際の人間性は他の地方のそれより上でも下でも無い、という、人間の本質と共存の本質という形への結論のようなストーリーだろう。

 

 

総じてXYやORASの文脈があるように思える為、やはり繋がりがあるように感じた。また、XYやORASより時間軸が先の事でもあり、両作品への結論のような物を表している雰囲気も感じた。これでこの題の話は大体終わり。

 

 

ここから先はUSUMとしての話をするが、長くなると自分にとってよろしくないので手短に終わらせるが、まず前作のSMは"犯した罪"の贖罪としてルザミーネは(作中で)目覚めなかったオチになった気がする。それに対してUSUMは、様々な事をしてしまうのも人間が自身が生きる為にする事であり、(善悪の基準も人間が自身が生きる為に作った物であり)"贖罪"という概念は存在しなかった印象である。個々が自分に対して反省をするシーンは多い。

 

このSMとUSUMの関係、XYとORASに似てないだろうか…?確証は無い為ここで終わらせておく。

 

ところで、XYは"現在"の問題を表し、ORASという過去にその原点があるという構図に見えた。さらに拡大解釈をすれば、時間軸にしてORASは過去側なので、共存について考えるきっかけが出来ると同時に、XYでのフラダリのような選民思想や、それに対するフラダリの実質的4亡という擬似的な贖罪、AZへの実質的な贖罪、パキラを罪に問えないという、「人間の善悪の基準が絶対的でなく、また人間が作り出したものに過ぎないという事」を表すかのような描写が有る。勿論XYはそれだけがテーマでは無いが…

 

つまり、現在の問題を考える際に過去を振り返るという構図になっている。USUMはSMのリメイク的存在であり時代も全く同じなので、この2つにそのような関係性は無いが、単純にXYやORASと同じような構図ではあるだろう。

 

(ルザミーネの過去は普通の人間であり、モーンがいなくなるというトラウマによって変わった事を過去の振り返りとするならば、SMにもUSUMにもその要素があると言えるだろう。SMでウツロイドの影響だと思われていた奇行がUSUMでは素の問題だったという構図になったのは、もしかすればルザミーネの奇行の裏にある深い過去への強調だったのかもしれない)

 

しかしそこで話は終わらない。現在起こっている問題の原点や正体が過去にある、という構図は、USUMに一つ大きく存在する。ウルトラビルディングの存在である。

 

ウルトラビルディングという"未来"に対する過去は現在である。未来に起きるであろう問題に対し、その原点が現在に存在する。今という時間は未来にとっての過去なのである。果たしてそれは、起こりうる未来の一つでありそれを知れたなら変えられる物として描いたのか、絶対に起こる未来であり変えられない物として描いたのか…

 

XYを振り返ると、AZは自分のポケモンが犠牲になる事に耐えられなくなり、最終兵器を使ってポケモンの命を犠牲にして蘇らせた。タブーに触れる事、共存から外れた行為をする事、それらに対して天罰のような物が彼に降りかかる… 実際は彼がしてきた事が自然の事として帰ってきているのだが… 自分が強いた価値観に自分が縛られるように…

 

そうした彼の名前を改めて振り返ると、AZである。人が生きる為にする様々な事が返ってくるこの悲劇は、ウルトラビルディングを見ると誰もがその輪廻に"最後まで"逃れられなかった事を示していると思うと、AZの名前が示す所は、人類の運命のような物なのかも知れない。

 

 

ホロキャスターのような技術は絶対に作る事が出来ないと思っていたがフラダリは作った。しかしこの運命は、技術の行き着く先では無く、起こりうる運命そのものなので、それを変える事は技術の「不可能」とはまた違う絶対的な「不可能」に見える。

 

プラターヌ博士はそれに直面する際、何を思うのだろうか…