ドサイドン@こだわりハチマキ

ここは ただの びぼうろく

ポケマスEXの悪の組織カロス編について、原作ORASやSM(USUM)も振り返りながら語る(アローラ編も短く)

このブログを更新するのも久しぶりですね。何やらtwitterが大変なことになったりなっていなかったりしているらしいが、そんなことはさておき今更になってカロス編について語りたくなったので書きます。
書く時間がなかった訳ではないが、なんか文章を書く気があまり沸いていなかったのでここまで今更感が出てしまった...

ちなみに今回は特に内容の予想に踏み込むので、猶更この文章に根拠が不十分な備忘録である事を了承願います。またそもそも文章に纏まりがほとんどないのでそこも了承願います。
1.原作XYの、原作全体としての立ち位置を考える
 
個人的にここの部分は簡潔にまとめて終わりたいのですが、端折りすぎるとこの記事が胡乱の極みになるので最低限は書きます...

まず、個人的には原作はテーマ的にはDP以降は全作品がつながっており、特に3DS作品として生み出された3作品はテーマ的にも、まるでそれら自体が一つの作品であるかのような結びつきがあると考えています。

そのように予想した理由については、まずORASを見て、この作品は「人は元来一切の例外もなく、自分勝手でしかなく、共存という概念も自分勝手の一環でしかない」というものが含まていると感じ、そして対照的にXYは、フラダリに対して起きたことが死亡であり、パキラは生きておりクセロシキは捕まり、またヒガナについては断罪のようなものがされていない(されるべきという主張をしたいのではなく,むしろその逆)ので、まずXYとORASは密接に結びついていると予想した。

SM(USUM)については、元はあまり密接に結びついた作品とは思っていなかったが、「人は元来一切の例外もなく、自分勝手でしかなく、共存という概念も自分勝手の一環でしかない」という概念を振り返ると、その末路がウルトラビルディングでポケモンなりの表現をしたのではないかと予想し、USUMもこのテーマの一環としても存在すると考えた(結果、部分的に後述するが、テーマとしてかなり結びついていると改めて考えた)。

どのようなテーマで結びついているのかについて、明確な根拠を交えた詳しい話はいつか別記事で語るとし、ここでは予想した結論について端的に話す(繰り返しになるが、十分とは程遠く根拠が本当に不十分な単なる妄言に近い予想である事を示しておく)

(以下予想)

まず大前提として、人やポケモンに限らずすべての生物は自分の生存欲求に100%従って生きており、特に(少なくとも)人は他の生物が持つような武器の代わりに知識を持って生きるような生き物なので、個が個の心に平穏を保つため様々な行動をし、心を平穏に保つため個が自分の生存を保つための、個の幻想を信じる。

つまり、各々が様々な事情を抱えながら、生存を維持するために動いている、というのが大前提である。そして、その生存本能からか、同じ場所に停滞というのはどうも生存の安寧を保つことは無く(仮に誰かが平穏を保てたとしても、別の誰かが変化して自分の席を奪う可能性があるから、と予想するが実態は謎)、相克を続けて各々が各々の生存をさらに強く求め、ついには破滅して終わる...というのが大まかに予想される物である。

そういった類の話がこの3DS作品群にあると予想し、各作品について振り返る(ここから更に予想の根拠のような文章を省きます)(またこれ以降の文章で、長さ的な都合により断定的表現が増えますが、すべて余す所無く単なる妄言に近い予想に過ぎないことを示す)

まず、XYはこの一連の話をするための問題提起的な話であり、プレイヤー側に、プレイヤー達の信じている価値観が本当に正しいのか、という問題を書いたと予想する。

そしてORASでそれがすべて正しくも間違ってもいない、無に等しいものであることを示し(最終兵器に対する価値観や支持勢力の大きさが逆転していたり、フラダリと違いヒガナへの断罪がなかったり、共存を目指した最中で生まれた犠牲の描写等から)、最後にUSUMで、人同士のつながりはここの身勝手な利害関係が一致したときに結ばれるものでしかなく(スカル団エーテル財団や、エーテル財団環境保護といった関係性から)、そして上述のウルトラビルディングでの結論を出すことで、この予想の部分で最初に書いた大前提を示し、これ自体を描くことでポケモン世界のリアリティを増したり、メッセージ性を入れる意図があったのではないかと予想する(後者は可能性は高くないと思う)。

(予想終わり)

つまり一分でまとめると、「人類たちの歴史は、各々が各々の生存を守るために、価値観を見出しそれを信じ込んだりして、発展は止まらずいつか世界がそれに耐えれなくなり、3DS作品はこの一連を描いており、XYでは作品の最初としてプレイヤー達に自信が信じている価値観への問題提起のような作品ではないのだろうか」というお話でした。特にORASやUSUMについての話が突拍子がなさすぎると思われますが、ここら辺の話はいつか別途に書いておきたいですね。

2.カロス編はどのような立ち位置でどのような話なのか

ポケマスEXのカロス編は、そもそもホウエン編が先に来ていたこともあり、リリース前まで何を描くのか予想もつかなかった。価値観に善も悪もない事はホウエン編で示されており、それ自体が原作XYとORASで示した事だからだ。しかしカロス編のリリース編からしばらくして重要な部分を見落としていたことに気づいた。

3DS作品の物事の順序としては、最後にSM(USUM)で、人の繋がりが身勝手な利害の一致によるものでしかないことを描いていたので、ここに触れる余地が楚そもそもあったことに、遅く気づかされた(ORASまでで描いたと思っていたが、よくよく考えるとORASまでで主に描いていたのは価値観の善悪の無い事であり、利害の一致等はまだ描かれていなかった)。

つまり、この一連の原作での話の、ORASからSM(USUM)で描いた、いわば両作品の中間地点にあたるようなストーリーを、ホウエン編とカロス編の間で描いたように描いたと思われる。つまり、SM(USUM)の表ストーリーで描いたように、人同士の繋がりは利害の一致したときにしか発生しない部分を描いたと思われる。

というのもカロス編は、いわば危害を加えるフレア団が存在していないのと、またフレア団全員は思想の何一つ変えていないが、主人公サイドはフレア団と利害が一致したり、自身の生存が保たれることで見方が変わっているのだ。

過激な選民思想の集団に対し敵対するというエピソードより、実際リリースされたように利害が一致すれば平穏に一緒に物事を解決する流れのほうが、なんだか残酷に見える...

ところで、SM(USUM)がテーマ的にXYやORASとつながっているというこの記事の前提は不確定なことに変わりはないが、カロス編は何故かアローラ要素である国際警察リラが思いっきり話に食い込んでいるので、アローラのテーマにカロスが絡んでいる→SM(USUM)がテーマ的にXYやORASとつながっているという説を補強するのではないか、と踏んでいる。

カロス編だけの話をするならば、「人の繋がりや価値観は利害関係の一致や生存を満たすか否かで決まる」という話で終わってしまうが、前後関係は上述のような話だと予想する。

ついでにアローラ編について短く語るが、いくらテーマの最終地点の作品とはいえ、人類がいつか地球を目も当てられない世界にしてしまいます!とかいう陰鬱な話をそこで書くとは思えなかったが、実際本当にそれは描かずに、恐らく自然保護といった活動も人の身勝手な欲望の一環であるという話や、利害関係でしかない繋がりも、それ自体が本当の繋がりであり、生きる上で無くてはならない物であるという話を描き、その結末等を描く序章のようなエピソードだと予想する。(後半はいきなり出てきた概念じゃねえかと言われそうだが、上記のようなテーマを描く上で、物事を正確に描くために表した人の本質、と予想する)

駆け足だったが、最後にこのテーマの終結をどこで描くのかという話になるが、それはキリヤ編だと予想する(今まで既存キャラが自分たちの正しさを表すものとしてポケモンバトルの強さを誰しもが全面に出していたが、それが正しさを示すものでもなく、またその正しさを示すこと自体が他の事同様残酷であることを示すように、キリヤの問答無用に強さを求める姿が表れ、価値観とは何か、正しさとは何か等について、やんわりと示すものになると筆者は考えている)。

3DS作品がつながっているという予想の根拠や、原作3DS作品についての感想は別の記事で書こうと思う。