ドサイドン@こだわりハチマキ

ここは ただの びぼうろく

【ポケモン】原作ダイパのエピソードを細かく知りたい

昨今ではポケマスEXがダイパをメインに取り扱って話題になったり、LEGENDSアルセウスの発売に伴い大きくダイパが盛り上がってる今、ダイパのエピソードを、特に制作意図を中心に知りたくなったのでここに書く。また、ポケモン原作DP(t)またはBDSPの既プレイ済の方が分かるような文を書いてる為、未プレイの方はあらゆる面でこの記事を推奨しない。

 

この記事の後半ではアルセウスの一部ネタバレを含む為(この記事の目印の境界線までは一切含まない)、特に未プレイの方はブラウザバックを非常に強く推奨する。

 

では軽く書き始める。

 

0.ダイパのストーリーのテーマは何なのか?

 

ここで最初に結論を書いておきますと、ダイパのエピソードは「差別」が一つのテーマになっていると考えている。あくまで仮説。

 

ストーリーを見返すと差別というテーマを短く端的に示した作品だと思ったが、その訳を次の段落からゆっくりストーリーを思い返しながら書く。

 

 

 

1.ダイパのストーリーとは

 

省略する(ごめん…)。また、今後この記事を読む際に断っておく必要のある物として、「アカギが目的を達成しようとする元々の動機は自身のロトムを幼少期に失った」という仮説を真実のように扱うので了承を願う。この話が深く関わる事は無いが一応…

 

軽く言えば、世界から感情という不完全なものを無くそうとするアカギと、それを意地でも止めようとするシロナの対立である。

 

2.シロナ、アカギの心情①

 

ここだけを見れば単なる主張のぶつかり合いで終わるようなストーリーであり、初見プレイならば大半はそれ以上の認識は起こりにくいように感じる。実際本作はキャラクターの裏設定が乏しく、意味を見出そうとも思われにくいストーリーであると思われる。

 

しかし前述のロトムの前置きと関係するが、アカギの行動や扱っている内容から見える「元々の動機」について考えると、DPtのストーリーは一味違った見方ができる。

 

アカギの言う「感情という不完全なものなど無くすべき」という主張をする人間の行動の源は、感受性豊かな方の中には察する人もいるのでは無いだろうか。

 

ロトムの件が真実であるかどうかはともかく、アカギは幼少期にトラウマレベルの出来事に遭遇し、その結果自分を守る為に「心がある世界は不完全だ」という、否定が難しい仮説を自分の心の拠り所にして、いつしか彼にとっての真実として行動の源になった、と思わされる。

 

勿論これはアカギとロトムの都市伝説があって初めて解像度の上がる話だが、そもそもアカギがするような行動は本当に感情を必要としない人間のする行動かと言われると疑問である。実際アカギは人一倍感情的な部分が多く、本当に感情を必要としない人間がする行動には見えない。

 

どちらにせよ幼少期の拗らせから現在の行動に繋がっている可能性が高い。

 

一方シロナはそうしたアカギの主張を真っ向から嫌う。ポケマスEXでは「因縁」という表現をされるまでに至った。

 

シロナは感情を大事にする事を信念に持つ一方、アカギに対する「世界が憎いなら一人自分だけが去ればいいじゃない(意訳)」という発言は、度々ファンからもツッコまれてるように冷たい発言という認識をされている。

 

アカギとは対称的に、感情を心から大事にしているのなら出てきにくい言動であり、アカギ同様矛盾を感じさせる。

 

3.シロナ、アカギの心情②

 

ここからはアカギやシロナの心情を深く予想する。先にシロナについて考えた方が考えやすいのでシロナから考える。

 

考古学者でチャンピオンというシロナの立ち振る舞いはまさしく立場の強い人間という立ち位置であり、少なくともプレイヤー視点からは立場の高いという事を「事実」として捉えており、それは同時に立場の格差の基準をも「真実」として捉えている事に他ならないだろう。

 

また同時にシロナはアカギと対称的に、感情を重んじる度合いを人としての基準として捉えている節もあり、その表れとしてアカギへの冷たい態度が表れている。

 

シロナの行動への是非はさておき、アカギへの対応の仕方は感情を重んじる人の行動と言うには適切とは言い難い。

 

ここでシロナの心情の予想の結論を書くが、予想の理由は長くなるので省く(ごめん…)。

 

結論としては、シロナにとって感情を重んじる度合いに左右される社会的立場の指標は「真実」であり、シロナはその中で高い立場にいると信じる事で心の安寧を持ち、その反対のアカギを嫌う事でその立場の高さを認識している。彼女が一番求めているのはその立場の高さである。

 

という結論だ。

 

例えば「真面目に生きろよ!」と部下に言っているが、本人はそう主張出来るほど真面目では無いものの自他共に真面目と思われてるような…(流石に言い方が悪い具体例)

 

要するにシロナは立場が高くありたかったという事。

あまりに伝わり難い文章でただの備忘録なのに申し訳ないが、何かニュアンスだけでも伝わってくれる人がいると個人的に嬉しい。

 

ところで自分に限らずダイパのエピソードを語ると必ず一回はシロナをsageる事になる上ここでは非常にsageているが、まだこの記事は終わらずこの後に続く文章にあるようにシロナをsageる意思がある訳では無いことを示しておく。

 

また、対称的にアカギは、(幼少期のトラウマ等から)感情を無くした世界が理想であるという説を事実として認識し、それを目指す事で自身が高い立場にいるという認識に繋がる事に心の安寧を求めている。アカギは何よりその立場の高さを求めている。

 

というのが結論だ。アカギもまたその立場の高さを求めており、正しくないと言い難い基準を事実として掲げており、その基準の中で上位に立っている事を求めている。

 

ここを裏付けかねない話として上記に挙げたロトムの都市伝説がある。幼少期に仲の良かったロトムを奪われた事で発生した強いトラウマから拗らせてアカギの人格形成に深く繋がったとするならば、心情の全貌が一気に想像しやすくなる。

 

両者共に「事実」と認識している価値基準で自分が上位に立っている事を求めており、両者そこから差別が行われている。シロナとアカギの価値基準はまさに正反対であり、両者が両者を差別する関係性になっていると思われる。

 

 

4.シロナは本当に悪人なのか?アカギは本当に善人なのか?

 

前述でシロナに対し差別だの立場の高さを求めているだのと酷い表現を繰り返した気がしないでもないが、実際はDPtはそのように「シロナが本当は悪人だった!終」と結論づけられるような作品ではない。

 

まず最初にDPtでは思想の是非やシロナの内なる心情といった部分は極力ぼかされている。その結果側からみれば単なる勧善懲悪として描かれていると思われやすい作品になっている。

 

その理由として考えられるものは複数あり、その中で特に挙げられるものとしてはポケモン自体そこまで話を踏み込んでしまうのはユーザーに求めている楽しませ方に反する、という説だ。

 

DPtに限らず思想のぶつかり合いのような部分を露わにしてしまう事は避けている印象だ。ポケモンの楽しみ方に支障が出そうと感じる。

 

正直ストーリー自体そこまで考えられてないという説もあるが、ストーリーを見ると個人的にはそのように思い難いので省略。

 

 

話を戻すと、シロナの立場としてはアカギという世界を壊そうとしてる人間が束ねる集団が本気で世界を壊そうとしているのを見せられているのであり、正直誰であっても差別とか区別とか立場の高さとか議論してる場合ではなく真っ先に止めたいという意識が先に立つ段階である。

 

しかしこれこそが差別なのである。世界を壊そうとする意志、感情を無くそうとする意志にNOを叩きつけるその価値基準自体元々存在しない物であり、その基準の存在自体差別なのである。

 

つまりシロナの反応は大多数から見て正常である。原作では終始(敢えて?)正常に描かれているからこその問題だろう。大多数の我々は行動に起こすかはさておきシロナと同じ感情を持つ筈だ。

 

「じゃあこれを書いてるお前は世界が潰れても良いというのか!」と突っ込まれそうだが、自分も世界が潰れて欲しく無いし感情が無くなって欲しくもない。そしてこれもまた差別である。

 

 

要するに差別とはそういう物であり、幼少期に自分が人に優しくされたり、恩を売ったら恩を返してもらったり、時には優しくされた後逆に恩を返す側に立ったり、そうした優しさの連続から生まれた価値観もまた差別なのである。そもそも、人が各々持つあらゆる好き嫌いも、本質は差別と同じなのだろう。

 

極め付けはシロナが嫌っていたアカギもまた差別をしており、アカギに関しては世界を壊そうとしている事を忘れてはいけない。

 

個人的にDPtは差別の本質を表していると感じた。差別が悪とか善とかそのような話ではなく、差別とは何なのか?についてを表した作品だったように感じた。

次の項ではまだ残っている大きな疑問について考える。

 

5.何故「神話」モチーフだったのか?

 

何故この作品は神話モチーフだったのだろうか。それは神話についての大まかな印象を語るのが良いと感じる。

 

神話には様々な存在があると思うが、その多くは人が求めている救いのような存在だろう。

 

話を少し戻すと、アカギ達は自身への立場の高さを求めており、その架空の存在として立場の基準を信じる様は人々の上記のそうした神話への信仰と似ていると感じる。(勿論全ての神話が架空と言っている訳では無い)

 

立場の高さというのは言わば生への安定が得られるかどうかの基準であり、神への救いを求める様もまた生への安定を願う様だろう。

 

ただ結果的に本作はパケ伝は単なる強大な力として扱われており、どちらかといえば本作でそれが表れているのはアカギが持つ「強大な力そのもの」への信仰だろう。

 

 

6.ポケマスEX

 

ポケマスEXはストーリーが度々話題に上がることがあり、アカギのエピソードは同じく強く話題に上がった。

 

ストーリーの内容は省略するが、本作で出てくるマーマネという人物の扱い方は取り分け大きな反響を呼んだ(自分調べ)。

 

マーマネはアカギと同じく人見知りで機械遊びが得意な子供であり、そんなマーマネにアカギは夜通し趣味について語り尽くし、「感情というもので不利益を感じた事は無いか?」と言った。

 

マーマネは言葉に詰まるも否定すると、アカギは「私の探した人間によく似た子供では無かった」と言い、その場を後にする。

 

その事から察するように、アカギは自分の共感者を心の中で探していたのだろう。それは自分が信じた価値基準が赤の他人にも信じてもらう事で信憑性が増すから、と考えると合点が行く。余談だが周りの大人がアカギを警戒し孤独になったアカギに、何も知らないマーマネが無邪気に話す様もまた、差別という本質をぶつけられる感覚を覚えた。

 

シロナはアカギを同じように止めようとするが、マーマネが心から説得しようとしている姿を見て考え方を改めようとする。(詳しくは本編の視聴を勧める)。

 

この後シロナがアカギを逮捕しようとしてアカギのパルキアジャラランガで倒すシーンがあるが、マーマネが説得を試した後、シロナは逮捕を取りやめるシーンがある。このシーンについて少しだけ語ろうと思う。

 

ズバリこれはマーマネが行った説得は、心を大事にした人間が行う説得であり、これはシロナが「自分が持っていると思い込んでいた」心情をマーマネが持っていた、という事だと思われる。

 

これはDPtのエピソードを踏まえるとマーマネの立ち位置はそのような立ち位置だと考えるとストーリーの収まりが良い。実際本当の意味での接し方ははマーマネの接し方が正しいのだろう。

 

ところでシロナがアカギをジャラランガで倒そうとしたシーンは、シロナは「感情で結ばれた私達に感情を捨てたアカギが勝てるはずがない」という主張をしているのに対し、アカギは「感情という不完全なものを信じている奴が勝てるはずはない」という主張をしている。

 

 

つまりこれは両者同じような人間だったという話なのだろう。

 

6.まとめ

 

本作は上記の話から、人間が生きたいという感情がもたらす差別という現象の本質を描いた作品というように感じた。また、それは人の内なる感情を描いた中で発生したもののように感じ、その中で神話という概念を登場させるに至ったのだろう。

個人的に人の心情を扱った作品としても、かなり深い作品だったと感じた。

 

ところでシロナの実生活は結構だらしないらしい。実はシロナが高い立場だとされている事へのちょっとしたアンチテーゼなのか、それとも単なるギャップ萌えなのか、どちらでも無いのか両方含まれているのか…

 

 

そしてここからはLEGENDSアルセウスのネタバレを含むので特に未プレイ・未クリアの方は

今すぐブラウザバックをしてください

 

 

 

下に長い空白の後に、アルセウスのストーリー触れた考察をします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは始めます。都合上ウォロをUと表記します。了承願います。

 

 

7.Uについて

 

本作のUはまさかのあのような正体だったのだが、これは単なる「原作とアルセウスとで悪役と味方の立場が違う」ネタというだけの話なのだろうか?

 

自分はここにダイパの全てが詰まっているとさえ感じた。

 

Uは悪役だった訳だが、彼は幼少期は一人だったが、強い好奇心と共に世界を駆け巡り、いつしかその好奇心でより良い世界を作ろうとした。

 

ここでも自分のUの心情に対する結論は(そこに至る理由は省く)、Uはシロナと同じように立場が上になる事を求めており、その過程はアカギの幼少期と似ている。

 

Uはそうした幼少期の経験から、好奇心こそが人としての立場の基準だという「事実」と信じ、本作主人公を含むその他の人間を見下しており、ギラティナでさえも見下していた。

 

彼には夢があり、それはアルセウスを従えて世界を変えるという内容だった。言わばそれが生きる目的だったとも言える。

 

 

Uは自分の生きる理由であり心の安寧である夢が潰えた事でどこか遠い場所に去っていった(これはイッシュかもしれない)。

 

ここで一番気になるのはシロナはUのようになってしまう可能性はあるのかどうかという事だろう。結論から言えばなり得ないと思う。シロナ自身は一般人とあまり変わらない感性である一方知識は豊富なので、Uと同じ境遇になっても、狼狽えるとは思うが同じ変貌は遂げないと思う。シロナは世界が何か一つの指標で表されるようなものでもないと思ってそうなので。

 

 

話をUに戻すと、何より興味深いのは、Uは自身が好奇心が誰よりあるからこそアルセウスに選ばれる筈だと認識しており、何も持たない主人公が選ばれたことに憤慨していた。「いや、その為にお前(主人公)は来たのか!」という発言は、ウォロが自身の価値基準をあまりに信じすぎた故の発言だろう。

 

前述したが神話というのは人が救いを求めた結果生まれたものが多く、そのような神話は人の感情を時に赤裸々に映すことがある。Uは「自分が持つ誰よりも強い好奇心こそが強い立場になる」という言説を真実として扱ってくれる対象として神話を見ていたのかもしれない。しかし、ポケモン世界ではORASやBWの時と同じように、神は人のそうした価値基準など全く関係なく、単なる気まぐれで行動する。そんな価値基準などありはしないというのを直接姿で示てしまうのも神という存在なのだろう。何故なら人が元々勝手に幻想を抱き、時に無から生み出してしまうのも神なのだから。

 

 

話を終える前に、Uについてもう少し語っておくと、Uはラストシーン以外は善人として立ち振る舞っており、常に好青年として存在していた。これは常に自分が立場の上であろうとした証とも言え、常に外面上の立場というベールに包まれている。

 

ただ前述のように我々は皆同じようにベールに包まれており、その本質はアカギやUと同じである事を示しているように感じた。それがアカギやUでは規模が大きかっただけであろう。逆に言えば規模は非常に小さいものの、我々プレイヤー含めてUのような心がある事を同時に示していると思う。

 

 

小言を挟むが、もしUが本当に好奇心を信じていたのなら、ただ時空の裂け目から落ちてきただけの主人公が選ばれた事に好奇心を持つと思うが… つまりはそういう事である。

 

また、Uが主人公に挑む際の姿をゲーチスと思ったり、負けた後の姿をNだと思った方が多いらしい。個人的に気づかなかった部分であり、自分としてはヒガナと少し似ていると思った所存である。ヒガナの事を自分が考えた際も同じような事を考察した気がする。

 

Nやゲーチスと似ているのは意図的だと思われる。両者共に原作では人であって人では無いような描かれ方をされている事から考えると、人間離れした感性を持ったあの親子も、その本質は我々人間と変わらない事を示しているのでは無いだろうか。

 

(2022/02/05追記 それまではシロナとUが似ている事を書いていたが、シロナが一般人と同じ感性を持っている事が重要であると考えると、寧ろUと似ていたら色々とマズイ筈なので、その部分を大幅に訂正した)

 

 

8.その他気になった所

 

随時加筆予定

 

・uと対の存在のシ◯ボシは何かアカギにまつわる意味が持たされているのか?

 

ありそうで多分無い。ただ幼少期にアカギが歪まなかったらこうなっていたんじゃないかと思うと関係はあるかもしれない

 

・レジェア◯の一般村人等について

 

純粋に重要なのに書き忘れていたのでここに追記

 

序盤から優しくしていたのにあの事件の際には「やっぱり悪人だったんだ…」とか、ム◯さんの主人公に対する態度とか、その他諸々一般人が本心では悪く思っていたり、反対にシ◯ボシは常に主人公を心から心配していたり、そうした内なる心情を隠している事がストーリーに随所に上がっていたのは、それがまるで本作のテーマの一つなのでは?と思うそしてそれは上記の差別にまつわる話に深く直結する内容であり、終始そうしたテーマが一貫して描かれているように感じた。

 

 

 

8.1 追記 主にテーマについて

 

(この章だけ敬語になってしまった 今更戻すのが面倒なのでそのままにしておく…)

 

レジェアルをクリアして振り返った後に考えたが、DPtは勿論、レジェアルは特に

「生きとし生ける者は皆自分の為に必死に生きており、それをテーマとし、自分の為に生きてる生き物で構成されてる空間で起こる現象が多数あり、それをプレイヤーに知ってもらう」事が一つの大きな目的の作品だったと思うようになりました。

 

そのように思った根拠は、例えばDPtなら

 

アカギが共感されやすい過去を持っていたり、

 

シロナの私生活がズボラなのもあって完璧ではない事を示していると予想した事だったり、

 

レジェアルなら

 

コトブキ村の存在であったり野盗の悲しい過去の存在であったり、

 

デンボクが主人公を散々良いように使った挙句危険と判断したら追い出したが、それにはデンボクの悲しい過去から来ていたという事実であったり、

 

ウォロの生き様であったり、

 

レジェアルの金策が野盗が落としたきんのたまを拾う事で、それは主人公のような立場でも他に方法がなければ野盗とほぼ同じ生き方をするというメッセージだと予想できたり、ほぼ同じ生き方でも野盗は咎められて主人公は咎められなかったりする事で、万人が持つであろう価値観への疑問を表していると予想した事だったり、

 

 

クリア後というちょっと注目を浴びそうなタイミングで発生するサザンカのイベントで、サザンカが主人公に時空の裂け目の絵について質問した後、時空の裂け目の絵を描き、「未来の人がそれぞれ何かを感じて欲しい」と言うイベントに関して、ズバリこれこそが作品のテーマが含まれていると予想し、上記の事やサザンカの主人公への質問の内容を加味し、サザンカについて「時空の裂け目という、未知なる存在にして生を脅かしかねない存在という、生き物の価値観の発生源を描くと同時に、それは全ての始まりを表し、同時に正体が分かれば大したものではない事をも示し、それを後世に絵という形で伝えた」と予想した事だったり、

 

そもそも神話は人の感情が生み出したものが大半であり、人の感情の元は「生」に直結したものであったり

 

 

そうした事を踏まえて結論付けましたが、これらがどう8.1の冒頭で言った結論に結びつくのかは、ちょっと説明出来ません() この章で述べた事を照らし合わせて予想したまでですので、他の章より妄想度が激しく、根拠に欠けると思います。

 

 

まあこの8.1に関しては要するに

 

シンオウ地方が舞台の作品は、生き物が必死に自分の為に生きてて、そこから色んな事が起きて、それを見てプレイヤーに何かを感じ取って欲しいという事も込めて作られていると予想しました

 

という事です。

 

 

そんな作品の形態がレジェアルのサザンカの絵やDPtのいぶんかのたてもののと同じだな〜と考えました。(両方とも恐らく同じもの)

 

 

 

だからこそサザンカの絵のイベントがクリア後にあったのだと思います。作品自体が「これを見て何かを思ってくれればそれでいい」という立ち位置で作られていたのならば、それと同じサザンカの絵は、作中で重要なものとして扱われていると思うので。

 

 

あと本当に余談ですがこの8.1は自分がTwitterに思わずふせったーを通して書いた部分を無理矢理ここに纏めたものであり、特にここで書いたサザンカの話は全くもって読みにくいです…

 

 

更に余談ですが、レジェアルはほぼ全ての世代のテーマが含まれてると予想しました。これは本当に根拠薄いので話半分程度の話です

 

初代金銀剣盾はポケモン世界の基盤を描いた作品なので直接関わりはないと思いますが、ORASで示された、本当の共存が難しいという事は原作ではエピデルで示されましたが本作ではクレベースを撃破するシーンで示されていたり、

 

XYで示した、人が作った価値基準は完全じゃない事を、原作ではパキラが捕まらずに終わった事や、少し過激なだけのフラダリが死んでしまった事で示され、今作では野盗のきんのたまで金策が出来てるのにお咎めが無い事で示されていたり、

 

BWで示された、思想や性格は皆平等だという事を、原作では作品を通じて示され、本作ではゲーチスやNやアカギの要素があるウォロが、共感されやすい過去を持ってる事で示されていたり、

 

SMは単純に舞台が似ていたり、

 

その意味でレジェアルは作品全体のテーマが集まった作品だと予想しました。勿論ポケモン原作のテーマについてから自分の根拠無き予想であり、本当に根拠が無い事を改めて示しておく。

 

レジェアルは何となくポケモン全作の集大成だと、プレイを通して感じました。

 

9.本当のまとめ

 

ダイパは「神話とヒト」という存在を突き詰めた作品だと個人的に感じており、その理由は上記に記した通りである。

 

ここからは本作と関係の無い余談だが、差別のない世界とは何なのだろうか。昨今話題になる話の一つだが、差別の無い世界を求める人々の大半は、「自分や自分と同じ連中が理不尽な目に遭ってほしくない」という感情から来るのだろう。しかしその感情や、文章中の「理」の概念こそが差別である。ただそれを認識して糾弾をやめれば、ただ強い人間が弱い人間を身勝手に使うだけの社会となる。しかしそれは今とそこまで変わらないのでは無いか?

 

そもそもより「良い」社会にしようとする際に、その「良い」「悪い」の基準こそが差別の一つである以上、差別は存在し続ける。差別は無くすべきか、無くさないべきか、そこに絶対的な答えは確実に存在しない以上、重要なのは0から本質に返り考え直す事では無いだろうか?

 

事の本当の本質は、アルセウスや他伝説のように、気まぐれで動くような生き物と同じように大した事は無いのだろう。

 

シロナもアカギもゲーチスも、皆同じニンゲン…